成康の治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 13:13 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動成康の治(せいこうのち)は、中国西周の成王・康王の統治期間(紀元前1043年 - 紀元前996年頃)を表す。史書に「成康之際、天下安寧、刑錯四十余年不用(成康の治世は天下が安定し40年余り刑罰を用いなかった)」と記録される安定した治世であったと伝えられる。
成王の在位期間中は、成王が幼少であったため周公旦が摂政となり、三監の乱を平定し封建制度を確立し周王朝の統治体制を確立した時期であるともされている。
脚注
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成康の治
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詳細は「成康の治」を参照 武王は建国後すぐに死去する。後を継いだ成王(在位:前1042年 - 前1021年)は未だ幼少であり、殷の残存勢力は侮れないものがあった。ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。心配されたとおり、殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、その後7年して成王が成長した後に、周公は一臣下に戻った。成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、東夷を討って勢威を明らかにした。 成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 - 前996年)である。康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。
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