レイ王_(周)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > レイ王_(周)の意味・解説 

レイ王 (周)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 07:13 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
本来の表記は「厲王 (周)」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
厲王
第10代王
王朝
在位期間 前877年 - 前841年
都城 鎬京
姓・諱 姫胡 または 姫㝬
生年 不詳
没年 前828年
夷王
后妃 申姜

厲王(れいおう)は、西周時代のの王。

周の夷王の子として生まれた。夷王が死去すると、厲王が周王として即位した。厲王の在位期間は佞臣の栄夷公を重用し、賢臣であった周公や召公らの諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。これにより周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた[1]

金文によれば、厲王は南国の服子を討伐したり[2]献侯とともに夙夷を征伐したり[3]と、親征を繰り返した[4]

民衆の不満が募り、紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、厲王を殺害しようとする国人暴動が発生した。事件に際して厲王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。そのため、『史記』によれば周公と召公が代わって朝政を見る共和の体制となった[1]。一方『竹書紀年』によれば、この時期に共伯和という人物が不在の王に代わって政務を執ったとされる。

紀元前828年(共和14年)に厲王は死去し、周公及び召公により、厲王の子である姫静が即位して宣王となった。

また、宣王の時代に厲王の末子である姫友に封じられ、鄭の桓公となった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 史記』周本紀
  2. ^ 国立故宮博物院所蔵「㝬鐘」
  3. ^ 北趙晋侯墓地8号墓出土「晋侯蘇鐘」
  4. ^ 佐藤(2016)pp.110-114

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「レイ王_(周)」の関連用語

レイ王_(周)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



レイ王_(周)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのレイ王 (周) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS