成廉
(?~198?) |
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呂布の将。 呂布は袁紹に身を寄せたとき、袁紹とともに常山の張燕を攻撃した。張燕は精鋭一万人、騎馬数千匹を抱えていたが、呂布は成廉・魏越ら数十騎を率いて張燕陣営に突撃、それは一日に三度にも四度にも及び、みな敵将の首を取ってから帰陣した。十日余りも戦っているうちに張燕軍は打ち破られた《後漢書呂布伝》。 建安三年(一九八)九月、曹操は呂布征討の軍を催し、十月、彭城を屠った。そのまま下邳へと軍を進めてきたので、呂布は騎兵を率いて迎え撃ったが、大敗し、驍将成廉は生け捕りになった《武帝紀》。 『武帝紀』において敵将に「驍将」と価値判断を伴う呼称を用いるのは珍しい。当時においては武名を知られていたのだろう。成廉は下邳城の陥落後、呂布・陳宮らとともに斬首されたと思われる。 |
成廉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/19 14:39 UTC 版)
成 廉(せい れん、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。
正史の事跡
姓名 | 成廉 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 〔不詳〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 呂布 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
呂布側近の武人。呂布は長安から追われた後、袁紹と共に常山で張燕と戦った。この時の呂布は、僅か数十騎で1日に3・4回も張燕の本陣に突撃を行ったが、成廉と魏越は常に呂布の傍らにあったという。このような戦い振りを10日余り続けた末、ついに張燕の軍を撃破した。
建安3年(198年)10月、下邳で曹操との野戦に参戦したが、呂布軍は敗北し成廉は捕虜にされた。これ以降、成廉に関する記述は見当たらない。
史書での成廉の記述は断片的だが、『後漢書』呂布伝では「健将」・『三国志』魏書呂布伝では「驍将」と書かれ、いずれも勇将ないしは猛将を意味する表現が冠せられている。
物語中の成廉
小説『三国志演義』では、呂布配下の八健将の1人(序列5位)として登場する。初戦で曹操を後一歩まで追い詰めるが、典韋に撃退され、最後は濮陽において楽進に弓で射殺されてしまう。
参考文献
- >> 「成廉」を含む用語の索引
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