十字軍及びエルサレム国王時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 17:42 UTC 版)
「フルク5世」の記事における「十字軍及びエルサレム国王時代」の解説
1120年頃にエルサレム巡礼に出かけ、十字軍に参加したフルク5世はテンプル騎士団と共に聖地の守備に当たった。それから8年後の1128年にエルサレム王ボードゥアン2世が長女メリザンドの夫を求めてフランスに使者を派遣、1120年の巡礼で十字軍国家の貴族たちと親しくなったこと、ノルマンディー・フランス双方にも一目置かれるほどの強大な領地と軍事的名声が決め手となり、ルイ6世の推薦でフルク5世に決まった。1126年に先妻を亡くしていたフルク5世は承諾、ジョフロワの結婚を済ませ、1129年にアンジュー伯領をジョフロワに譲り、エルサレムへ旅立ち現地でメリザンドと再婚した。2年後の1131年にボードゥアン2世が亡くなった後、夫婦両王としてエルサレムを共同統治した。 当初はフルクが実権を握り、アンジュー家出身のフランス貴族を側近として登用したが、先代の側近も登用してバランスを取っていた。しかしアンジュー家出身者を重用していた事実は変わらないため、現地の他の諸侯と不仲になり、1134年に義妹でアンティオキア公ボエモン2世(英語版)の未亡人アリックス(英語版)が権力独占のため、エデッサ伯ジョスラン2世とトリポリ伯ポンスと結託して娘コンスタンスに権力を渡さない姿勢を示した。フルクは舅からアンティオキアの摂政と義理の姪コンスタンスの後見を受け継いでいたため、直ちにアンティオキアへ急行しポンスを捕らえ、町の住民たちの支持を取り付けてコンスタンスのアンティオキア公位を確保したが、同年にメリザンドの幼馴染でヤッファ伯ユーグ2世が反乱を起こした。反乱は貴族の支持を得られず失敗したが、背景には現地諸侯と新参者たちの対立があり、フルクが前者の支持者であるメリザンドを蔑ろにしていたことも反乱の一因だったため、以後フルクは妻を尊重して政治に参加させ、1136年頃からメリザンドの影響力が強くなった。 この他、アンティオキアを守るため諸侯と相談の上でコンスタンスの夫にレーモン・ド・ポワティエを選び、1134年以後フルクはユーグ2世の反乱に忙殺されアンティオキアに介入出来なかったが、アリックスは権力の座から降ろされた。1136年には聖ヨハネ騎士団に王国南部の要衝ベイト・ジブリンを提供して守備を任せ、ダマスカスのアタベク・ムイーヌッディーン・ウヌルと同盟し、北はザンギー、南はエジプト(ファーティマ朝)と抗争しながら領土をよく維持した。だが1137年にはホムスをザンギーに包囲されたウヌルの要請で救援に向かったが、ザンギーの返り討ちに遭い逃げ込んだバーリンを包囲され、身代金と砦を明け渡して退去する苦い敗北を喫している。それでも1140年にザンギーがダマスカスを包囲すると、ウヌルの再要請に応え援軍を率いてダマスカスに接近、ザンギーを撤退させた。この包囲戦をきっかけにウヌルとエルサレム王国は攻守同盟を結び、ウヌルはザンギーから奪取した都市バニヤースをエルサレム王国へ引き渡しエルサレムを訪問、ダマスカスとエルサレム両国の同盟はフルクやザンギーの死後も延長された。 メリザンドがベタニアに建立した修道院へ夫婦揃って寄進を行う一方でシリア正教会と騎士の領地紛争に巻き込まれたこともあり、ファーティマ朝の捕虜となり30年以上監禁されたフランク人騎士の土地を正教会の修道院が取り戻したが(元々修道院の土地だったが騎士に与えられた)、捕虜から帰還した騎士の所領返還要求を確認したため修道院を擁護していたメリザンドの怒りを買い、板挟みに遭い困り果てる一幕もあった。紛争はメリザンドの裁定で騎士に賠償金が支払われ修道院は土地を確保している。 1143年、アッコで狩猟中に落馬し亡くなった。遺体はエルサレムの聖墳墓教会へ埋葬され、幼い息子のボードゥアン3世が王位を継いだが、翌1144年にザンギーはジョスラン2世からエデッサ伯領を奪い、まだ幼君の下、安定していなかったエルサレム王国を支えるメリザンドは欧州に特使を送り、第2回十字軍を要請することになる。1146年のザンギー暗殺でエデッサはジョスラン2世が奪還したが、ザンギーの息子ヌールッディーンに再びエデッサを奪われたことで欧州に衝撃が走り、第2回十字軍の準備が進められていった。
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