事前調査と十字軍発令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 07:14 UTC 版)
「シュテディンガー十字軍」の記事における「事前調査と十字軍発令」の解説
1229年の反乱軍に敗北を喫したゲルハルト2世は、十字軍結成に向けて準備を始めた。おそらく彼は、1228年にパーダーボルンとユトレヒトのウィルブランドが反乱農民に対して起こしたドレンテ十字軍に着想を得ていたと言われる。1230年3月17日、ゲルハルト2世は管区内での宗教会議を招集し、シュテディンガーを異端であると宣言した。シュテディンガーは迷信的な儀式を行い、司祭を殺し、教会や修道院を焼き、聖餐を冒涜した、と非難された。カルチェレのサン・ニコラのオットー枢機卿や随員のドミニコ会士たちも同年の後半にブレーメンを通り過ぎる際にゲルハルト2世への支持を表明し、ゲルハルト2世の十字軍計画を強力に後押しした。 1230年6月、ゲルハルト2世はローマに赴き、個人的に事の次第を教皇グレゴリウス9世と相談した。グレゴリウス9世は慎重に事を運ぼうとし、ミュンスター大聖堂長に破門とシュテディンガーに対する非難の妥当性を確認するよう命じた。この調査が済むと、グレゴリウス9世は使徒的書簡スィ・エア・クェ (1231年7月26日)をリューベック司教ヨハン1世とブレーメンの主だった2人のドミニコ会士に送り、さらにシュテディンガー糾弾の妥当性を調査しシュテディンガーを聖餐に呼び戻すよう命じた。ただし、このスィ・エア・クェの時点で、シュテディンガー非難が正しいと分かった際には調査者たちに近隣の貴族に軍事援助を求めることを認めていた。リューベック司教が状況の解明に失敗したので、グレゴリウス9世は改めてラッツェブルク司教ゴットシャルクとミンデンのコンラート1世に再調査を命じた。 1232年10月までに、グレゴリウス9世はゲルハルト2世から依頼された通り十字軍を宣言する準備を整えた。1232年10月29日、彼はシュテディンガーに対する十字軍を呼びかける使徒的書簡ルキス・エテルネ・ルミネを、ミンデン、ミュンスター、オスナブリュックの聖職者たちに送り、受け取った聖職者たちはブレーメン、ミンデン、パーダーボルン、ヒルデスハイム、フェルデン、ミュンスター、オスナブリュックで十字軍の説教を行った。司教たちには説教のため、必要に応じてすべてのドミニコ会士を雇い入れる権利を与えられた。また神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世も、シュテディンガーに対し帝国アハト刑を宣告した。 グレゴリウス9世は書簡の中で、シュテディンガーが数々の神学的な過ちを犯し、乱交を行い、悪魔を崇拝する儀式を行っていると糾弾した。また彼は十字軍参加者への段階的な贖宥を規定し、十字軍の説教に参加すれば20日、他人の金で十字軍に従事すれば3年、自弁で従事すれば5年の免償を得られるとした。また己の罪を告白し、十字軍に参加して死んだ者に限り、完全な免償を享受できるとした。また金銭を寄付して十字軍に参加した者は、その額に応じて説教師の裁量により免償を得られるとされた。十字軍の行われる期間、すなわち贖宥状を得るために必要とされる期間についても、説教師たちが軍事的条件に基づき自分の裁量で決めていた。
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