十字軍および東ローマ帝国との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:33 UTC 版)
「ザンギー」の記事における「十字軍および東ローマ帝国との抗争」の解説
1137年、ザンギーは再びホムスを奪おうと大規模な軍を用意するが、領主ウヌルはすぐさまダマスクスと連絡を取りエルサレム王国やトリポリ伯国に救援を要請し、ザンギーを挟み撃ちにしようとした。ザンギーはウヌルと講和を結ぶと、ただちに十字軍側に向きを変え、この地方最強の十字軍の要塞であるバーリンを攻略することにした。エルサレム王フルクとトリポリ伯国が直ちに軍を向かわせたが、これがザンギーの最初の西洋人との戦いになった。フルクたちの軍は撃破され、バーリンに籠城することとなった。ザンギーは要塞を包囲した末、フルクと要塞の明け渡しと大金の支払いという有利な条件で講和し、フルクとその部下はエルサレムへ逃げ帰った。 この時ザンギーは、東ローマ帝国の皇帝ヨハネス2世コムネノスが南下していると聞いていたため、フルクやダマスクスとの休戦を早々に済ませなければならない状態だった。一旦は皇帝の目標はアンティオキア公国と聞いて安心したものの、攻囲戦の末アンティオキアが皇帝に屈従し、皇帝はさらにアンティオキア公レーモン・ド・ポワティエとエデッサ伯ジョスラン2世を従えてシリア攻撃を開始した。ザンギーは軍を連合軍に向けて動かし、アナトリア、バグダードのスルタン、シリアやジャズィーラのムスリムの諸王に使者や扇動者を送り、全員応援に駆けつけるよう呼びかけた。また十字軍国家側と皇帝側を離反させる陰謀をめぐらし、その結果レーモンやジョスラン2世は皇帝が中東で勢力を増すのを恐れ非協力的になった。1138年4月、最初の攻撃目標であった都市シャイザルに連合軍は到達したが、数で劣るザンギーの伏兵や連合軍内の不和、ムスリムの増援軍に対する恐怖から1ヶ月で撤退し、危機は去った。
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