サラーフッディーンの宰相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/14 08:00 UTC 版)
「アル=ファーディル」の記事における「サラーフッディーンの宰相」の解説
ファーディルによる1169年3月のサラーフッディーンの宰相就任の際の公式宣言文書の起草をかわぎりに、1171年2月にはファーディルの文書庁長官任命があり、サラーフッディーンとファーディルのエジプト統治がはじまった。ファーディルの文書庁長官任命以降、サラーフッディーンは彼に国政の管理を託し、これによりファーディルは宰相と見なされるに至る。この段階でファーディルは旧ファーティマ朝の省庁から引き継いだ者も含むエジプトの官僚群を従え、全予算の管理と公文書起草の責任を負うことになった。 ファーディルはエジプトの財政を預かり、エジプトの復興に力を割いた。サラーフッディーンはシリアとエジプトの統合や対十字軍戦争のために軍を動かしたが、このために軍事費はエジプトの歳入の84%に当たるほどにまで膨らんだ。エジプト復興を担うファーディルが財政を圧迫する軍事費に対して快く思うはずもなく、彼はサラーフッディーンに軍事費が多すぎると不満を漏らしている。また、環境が整うまで十字軍との決戦は控えるべきであると進言しており、軍事的には概して慎重な態度を取った。とは言え、これらの相違によってファーディルとサラーフッディーンの関係が損なわれたような記録はない。 サラーフッディーンがシリアにいる間は彼と離れることが多かったファーディルであるが、1193年のサラーフッディーンのダマスカスでの死去の際には隣席しており、主君の最期を看取っている。
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