サラード川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 10:43 UTC 版)
「ユースフ1世 (ナスル朝)」の記事における「サラード川の戦い」の解説
詳細は「サラード川の戦い(英語版)」を参照 翌日の1340年10月30日に起こったサラード川の戦い(英語版)(タリファの戦いとも呼ばれている)ではキリスト教徒側が決定的な勝利を収めた。この戦いで黄金の兜を被っていたユースフ1世はポルトガル軍の攻撃を受けて戦場から逃亡した。ナスル朝の部隊は当初は防御に成功し、反撃してアフォンソ4世を破りかけていたが、キリスト教徒側の援軍が到着すると味方のマリーン朝の部隊を後方に残して敗走した。マリーン朝軍も午前9時から正午まで続いたカスティーリャ軍との主戦闘の末に敗走した。ハーヴェイは、数的不利にもかかわらずキリスト教徒側が勝利した要因はその騎馬戦術と優れた鎧にあったと考えている。軽装備で高い機動力を有する騎兵を中心としたイスラーム教徒側の戦術は開けた場所での戦いにはよく適していたものの、比較的狭隘なサラード川の戦場では整然と戦列を組んだ鎧をまとった騎士による攻撃がキリスト教徒側に決定的な優位をもたらしていた。 戦闘の後にキリスト教徒の部隊がイスラーム教徒の陣地を略奪し、アブル=ハサン・アリーの妃であるファーティマ(ハフス朝のアブー・バクル2世(英語版)の娘)を含む女性や子供たちを殺戮したが、ファーティマの身代金を得ることを望んでいた指揮官たちはこの行為に落胆した。また、アブル=ハサン・アリーの息子であるアブー・ウマル・ターシュフィーンを含む多くの王族や貴族が捕えられた。殺害された者の中にはナスル朝の知識人や公職者も多く含まれていた。ユースフ1世はマルベーリャを経由して首都のグラナダへ撤退した。一方のアブル=ハサン・アリーはジブラルタルへ向かい、不在時の反乱を防ぐために本国へ勝利の知らせを送るとともに同じ日の夜に海峡を渡ってセウタに逃れた。 何人かのイスラーム教徒の作家がマリーン朝のスルターンに敗戦の責任を負わせた。ザイヤーン朝のウマル2世は、「イスラーム世界の長を辱め、偶像崇拝者を歓喜させた」と語り、トレムセン出身の歴史家であるマッカリーは、軍隊が「風の前の塵のように」追い散らされるがままであったと批評した。一方でユースフ1世が非難に晒されることはなかったとみられ、ナスル朝では引き続き評判を保った。アルフォンソ11世は勝利を得てセビーリャへ引き返し、イスラーム教徒の捕虜と自軍が奪った戦利品を誇示しながら凱旋した。大量の金と銀を獲得したため、遠く離れたパリやアヴィニョンでもこれらの相場が6分の1に下落したといわれている。
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