サラーフッディーンの弟としてとは? わかりやすく解説

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サラーフッディーンの弟として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/27 03:07 UTC 版)

アル=アーディル」の記事における「サラーフッディーンの弟として」の解説

に従って十字軍との戦争活躍した第3回十字軍総司令官リチャード1世交渉して和睦成立させたのはアーディルの手腕によるものである。 1145年誕生。この時期、父アイユーブザンギーからバールベクの統治任されており、彼もバールベクで産まれ可能性が高い。記録残っていないが当時ムスリム一般的な慣習からすれば1159年成人して帯剣するようになった思われる。兄サラーフッディーンとともに叔父シールクーフ従い1168年第三回エジプト遠征従軍そのままエジプトとどまり、兄の名代としてエジプト統治していた。1174年ファーティマ朝残党上エジプト反乱起こした際、これを鎮圧1177年サラーフッディーン新たな艦隊建造命じアーディル新設の「艦隊庁」の長官任じられ80隻の艦隊揃えた。なお、提督としてエジプト艦隊指揮取ったのはアーディル家令であったフサームッディーン・ルゥルゥであったサラーフッディーンの対十字軍戦争援軍要請があり、1183年にはエジプト軍率いてカラク攻撃合流アーディルアレッポ統治権所望してサラーフッディーンがこれを認めたため、この後アーディルアレッポ移ったが、すぐにエジプト問題起こったためカイロ舞い戻っている。1187年ヒッティーンの戦いの後は兄と合流しエジプト軍率いて十字軍との戦い身を投じた第3回十字軍に際してアッカ攻防などに参加最終的に和平交渉受け持ちリチャードとの和約実現させた。 なお、1183年6月11日アレッポ征服したサラーフッディーンは、当初アレッポ中心とした北シリア領主に、自身愛す息子ザーヒル・ガーズィー据えた。しかしそのちょうど6箇月後、サラーフッディーンアレッポを弟のアーディル・アブー・バクルに統治させた。これにはアーディルをなだめ、急拡大した自身支配領域安定化させようという意図があったものと推測されている。しかし、その3年後(1186年)には再びザーヒルアレッポ与えアーディルエジプト配置したアレッポ統治権をめぐるこれら一連の混乱は、1193年サラーフッディーン死去以後9年間に及ぶアーディルザーヒルの間の対立の原因になった

※この「サラーフッディーンの弟として」の解説は、「アル=アーディル」の解説の一部です。
「サラーフッディーンの弟として」を含む「アル=アーディル」の記事については、「アル=アーディル」の概要を参照ください。

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