サラード川の戦い以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 10:43 UTC 版)
「ユースフ1世 (ナスル朝)」の記事における「サラード川の戦い以降」の解説
マリーン朝の軍隊の大部分が北アフリカへ撤退したため、アルフォンソ11世はナスル朝に対して自由に行動を起こせるようになった。そして1341年4月にマラガへの攻撃を装ってナスル朝へ侵攻した。ユースフ1世が他の地域から多くの兵力を集めて西方の港湾都市であるマラガの軍事力を増強すると、アルフォンソ11世はマラガを救援するために守備隊を削減していたグラナダから北へ50キロメートルに位置する国境の重要な要塞都市であるアルカラ・デ・ベンサイデに兵力を振り向けた。カスティーリャ軍は都市への包囲を開始するとともに周辺の農村地帯を荒らし周り、食糧を奪うだけに止まらず(攻撃側には何も利益をもたらさない)ブドウの木の破壊行為に及び、地域の農業に長期的な被害を与えた。 これに対してユースフ1世はグラナダ周辺の豊かな平野部へのカスティーリャ軍によるさらなる襲撃を阻止するために、ピノス・プエンテに位置する強固な防御力を持つ拠点に移動した。アルフォンソ11世はユースフ1世を拠点から誘き出すためにより多くの地域へ襲撃を拡大したが、カスティーリャ軍がロクビンとイリョラ(英語版)周辺の地域への破壊に向っている最中もナスル朝軍は拠点に留まり続けた。アルカラへの包囲が進んでいる間にユースフ1世はアルヘシラスからマリーン朝の援軍を受け入れるようになり、その後モクリンから10キロメートルの場所まで移動した。カスティーリャ軍とナスル朝軍はどちらも正面攻撃の危険を冒さず、アルフォンソ11世はユースフ1世を挑発して待ち伏せしようとしたが失敗に終わった。結局、アルカラのイスラーム教徒の守備隊は救援の見込みが立たないために安全な通行の保証と引き換えに要塞の明け渡しを申し出、アルフォンソ11世はこれを受け入れて1341年8月20日に要塞は降伏した。その後、ユースフ1世は停戦を申し入れたが、アルフォンソ11世はマリーン朝との同盟の解消を要求し、これに対してユースフ1世が要求を拒否したために戦争は続いた。 アルカラへの包囲と並行してアルフォンソ11世の軍隊は近郊のロクビンも占領した。また、アルカラ陥落後の数週間でカスティーリャ軍はプリエゴ、カルカブエイ、マトレラ(英語版)、およびベナメヒ(英語版)を攻略した。1342年5月にはジブラルタル海峡を航行していたマリーン朝とナスル朝の艦隊がカスティーリャとジェノヴァの艦隊による迎撃を受けて敗北し、12隻のガレー船が破壊され、その他の船もナスル朝の沿岸地帯へ散っていった。
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