第二回三頭政治と帝政のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:18 UTC 版)
「内乱の一世紀」の記事における「第二回三頭政治と帝政のはじまり」の解説
詳細は「アウグストゥス」、「マルクス・アントニウス」、および「アクティウムの海戦」を参照 カエサルの大甥にあたり、事後を託されたガイウス・オクタウィウス・トゥリヌスは、カエサルの腹心であったマルクス・アントニウス、カエサルの副官で最高神祇官のマルクス・アエミリウス・レピドゥスの助けを借りて反カエサル派の元老院議員を一掃した。3人は「国家再建三人委員会」を市民集会によって認定させて正式な公職として発足させた(第二回三頭政治)。 しかし、紀元前42年のフィリッピの戦いなどにより、長年の政敵キケロや、カエサル暗殺の首謀者ブルトゥス、カッシウスなどの共和派の巨頭が一掃されると、アントニウスとオクタウィアヌスのあいだで主導権をめぐって対立が深まった。紀元前40年にはブリンディシ協定が結ばれ、ローマの勢力範囲を三分することになり、この時アントニウスはヘレニズム世界、オクタウィアヌスは西方全域、レピドゥスはエジプトを除くアフリカ全域の統治を任されている。紀元前36年、シチリアで最後の反カエサル派でポンペイウスの次男セクストゥス・ポンペイウスとオクタウィアヌスとの戦い(ナウロクス沖の海戦)があった後、レピドゥスはオクタウィアヌスの打倒を図って失敗、同年失脚した。 アントニウスとオクタウィアヌスの対立は、再び内戦へと発展した。オクタウィアヌスは、エジプトの女王クレオパトラ7世と組んだアントニウスを紀元前31年アクティウムの海戦で撃ち破り、翌紀元前30年にはアントニウスが自殺して「内乱の一世紀」とよばれた長年にわたるローマの混乱を収拾した。一方、300年つづいたプトレマイオス朝エジプトが滅亡、ローマに併合されて地中海世界の統一をも果たした。 オクタウィアヌスは戦争後の処理がすむと、非常時のためにゆだねられていた大権を国家に返還する姿勢を示したが、紀元前27年、救国の英雄となったオクタウィアヌスは元老院より「アウグストゥス(尊厳なる者)」という神聖な称号を受けた。自らは「プリンケプス」(第一市民)を名のったものの、事実上は最初の「皇帝」となり、カエサルの諸改革を引き継いでいくこととなった。帝政ローマのはじまりである。
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