第二回モスクワ裁判
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詳細は「第2回モスクワ裁判(ロシア語版)」を参照 ヴィシンスキーの予告通り、第二回裁判(いわゆる「17人裁判」)は早くも1937年1月23日に開かれた。併行本部陰謀事件を裁く法廷であるとされた。今度の被告はピャタコフ、ムラロフ、ソコリニコフら17名。また今回の法廷から「ソ連産業への妨害」も訴因に入り、スターリンの失政を覆い隠す意味も持つようになった。その為、トロツキーに近かった大物政治家ばかりでなく、ソ連の様々な産業セクションの現場責任者や技術者で、中央の政争とは本来無関係だった無名の者たちも多数含まれるようになった。審理も第一回と同様に進められ、やはり全員が「自白」している。「ドイツや日本の手先となりスターリンの暗殺をもくろんだ」とされ、1月30日にほとんどは銃殺刑判決が下されて2月1日に執行された。ラデックとソコリニコフ、ストロイロフ、バレンティンの4名は懲役刑となったが、ラデックとソコリニコフの2名は翌1938年に獄中で「同房の囚人」によって殺害され、最後まで生存したストロイロフとバレンティンも1941年の独ソ戦勃発に伴い、ナチス・ドイツに白ロシア共和国が蚕食される中、NKVDの囚人虐殺(英語版)に巻き込まれる形で命を落とした。 被告人たちの何名かに対しては、ブハーリンとルイコフが被告人本人の自白とは異なる反対証言を行っているが、裁判後程なくして両者ともに逮捕されることとなる。 裁判を傍聴したリオン・フォイヒトヴァンガーは、著書『モスクワ1937』にてこの裁判についての講評を残しているが、産業畑の被告人達に対しては「彼らは"野心と欲望を持っていた"と説明されても俄には反論しがたい経歴を有する者達ばかりであった。彼らはその分野でかなり出世した人物ではあるが、最高位のポストに就いていた訳ではなく、いずれも政治局員ではないという共通項があった。」という印象を持ち、粛々と自らの罪を告白していく被告人達に対しては「これが拷問と脅迫に起因するものでないとすれば、薬物を投与されたか催眠術を掛けられたかのいずれかであろう。」「ラデックをはじめとする被告人たちは死刑判決を前にしても皆余りにも落ち着き払っていたが、一方で頻りに傍聴席の視線を気にしているような素振りも見せており、これは刑事裁判というよりも入念なリハーサルと演技指導の上で上演された演劇のようにしか見えなかった。」と書き記している。
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