「ローマ皇帝」の誕生
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「アウグストゥス」の記事における「「ローマ皇帝」の誕生」の解説
共和制復帰宣言から3日後の1月16日、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう懇請した[要出典]。オクタウィアヌスは数度にわたり辞退した上でこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥス (Imperator Caesar Augustus) と名乗るようになった。慎重なアウグストゥスことオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず、一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとったのである。これにより共和制は、元老院議員たちには気付かれないうちに(オクタウィアヌスが巧妙に偽装しつつ)終焉し、ローマは帝政へと移行した。初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。なお、アウグストゥスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は、後のディオクレティアヌスに始まる「ドミナートゥス (専制君主制)」と区別して「プリンキパトゥス (元首政)」と呼ばれている。 アウグストゥスの創始した帝政(元首政)は、カエサルのような非常大権の獲得といったイレギュラーなものではなく、あくまでも従来から存在するレギュラーな公職、つまり執政官職とプロコンスル職を兼任するといったものであった。すなわち、臨時職として位置づけられすでに廃止されていた独裁官の官職を復活させるような直接的なことはせず、また共和制の枠を超える新たな地位を創設することも行わなかったのである。アウグストゥス自身、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」(『神君アウグストゥスの業績録』34)と述べている。しかし、この執政官職やプロコンスル職の兼任こそがローマ帝国全土を支配する政治的・軍事的根拠となり、あわせて「アウグストゥス」の尊称授与といった権威が備わったため、この紀元前27年の取り決めこそアウグストゥスにとってローマ皇帝権力が確立する「第一段階」となったのである。このようなことから、紀元前27年にアウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任したと後世いわれるようになった。 紀元前27年秋から紀元前24年にかけて西方の再編に着手、紀元前23年にローマに帰還した。同年、連続して就任していた執政官を辞任する代わりに、1年限りの護民官職権を付与され、以後は例年更新されることになった。アウグストゥスはこの護民官職権のうち身体不可侵権については既に保持していたが、法案に対する拒否権等、残余の権限がこのとき与えられたのである。さらに、プロコンスル命令権が上級プロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ・マイウス)に強化されたため、元老院属州でも権限施行が可能となり、この結果、皇帝権力はより強固なものとなった。これが皇帝権力確立の「第二段階」である。 表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは終始唯一のローマの統治者であり続けた。そして彼の後継者達もアウグストゥスの称号を名乗り続ける事により、帝政は既成事実化していく。アウグストゥスは、インペラトルやカエサルなどとともにローマ皇帝を示す称号の一つになっていった。 紀元前22年からは東方の再編に着手した。紀元前19年に帰還し執政官命令権(インペリウム・コンスラレ)を得た。紀元前18年には、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を制定し秩序の安定化と道徳の確立を試みた。なお、紀元前12年にアグリッパ、紀元前8年にマエケナスと相次いで長らくの腹心が死去した。紀元前7年、それまでポメリウムの内外程度しか区分がなかった首都ローマを、14の行政区に分割して各区の行政上の責任を明確にした。
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