「ローマとベルリンの枢軸」発言
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「「ローマとベルリンの枢軸」発言」の解説
詳細は「ローマとベルリンの枢軸(英語版)」、「枢軸国」、および「アドルフ・ヒトラー」を参照 ドイツのヒトラー政権は、ファシズムに影響されたナチズムとヴェルサイユ条約体制の打破を掲げて再軍備宣言などに着手し、国際的に孤立していた。ヒトラーはムッソリーニへの尊敬を公言し、早い段階から独伊の国家同盟を模索していた。対するムッソリーニはドイツという国家には若い頃から好意を持っていたものの、ナチズムの持つ人種主義的要素を嫌悪し、パワーポリティクスの点からもヴェルサイユ体制の維持を支持していた(ストレーザ戦線)。 1934年6月、ヴェネツィアでイタリアを最初の外遊先に選んだヒトラーとの会談が行われた。会談でヒトラーはムッソリーニをカエサルに例えるなど好意を深めたが、得意の北方人種論を口にして不興を買った。ムッソリーニはナチスの反ユダヤ主義は「常軌を逸している」と批判し、オーストリア併合問題でもドルフース政権を支持して譲歩しなかった。会談後、外務次官フルヴィオ・スーヴィッチとの会話でヒトラーを「道化師」と評したのは有名な逸話である。その後も相次いで発生した突撃隊粛清やドルフース暗殺事件などヒトラーの人間性を疑う出来事が続き、嫌悪感が募るばかりであった。それを裏付けるように次の独伊会談は3年間にわたって行われなかった。一方でヒトラーの政治的能力についてはムッソリーニも当初から高く評価しており、自身への敬意も誠実な内容と感じていた。第二次エチオピア戦争で英仏と対立した頃からヒトラーやドイツとの交流を進め、スペイン内戦では事実上の同盟国として共同戦線を張った。 ムッソリーニは1923年に「歴史の枢軸はベルリンを通過する」と当時のヴァイマル共和政下のドイツ政府との関係の重要性を指摘した際に初めて「枢軸(伊:Asse、英:Axis)」という用語を政治的に使用した。それから独伊関係が深まる中で「ローマとベルリンの枢軸」こそが新しい世界秩序を生み出すと改めて演説し、旧協商国に挑戦する独伊関係を指して「枢軸国」(英:Axis powers)とする政治用語が国際的に定着していった。1930年代後半からムッソリーニは新生ドイツが英仏に取って代わることを力説するようになり、旧協商国の中心である英仏で少子化や高齢化が進んでいることを衰退の証拠として挙げ、独伊による枢軸国の形成を国民に訴えた。 1937年7月、今度はムッソリーニがドイツを訪問することが決まると、ヒトラーは「私の師を迎えるのだ。全てが完璧でなければならない」と側近に語り、宿泊する建物や使用する部屋を細かく検討し、ベルリンの中央広場には自らが設計したムッソリーニの記念像を建設させた。ドイツ各地でナチ党員の組織立った歓迎を受け、欧州随一の工業力と再建されたドイツ国防軍の陸軍部隊の演習を視察して深い感銘を受けた。会談の仕上げとして前年にベルリンオリンピックが開催されたマイフェルト広場(ドイツ語版)(五月の広場)で開かれたナチ党の政治集会で記念演説が行われた。100万人の聴衆を前にヒトラーから「歴史に作られるのではなく、歴史を作り出す得難い人物」として紹介を受けたムッソリーニは近代のドイツとイタリアが同時期に統一を達成したことを踏まえ、現代の独伊友好、更にはファシズムとナチズムとの思想的同盟について以下の様にドイツ語で演説した。 ファシズムとナチズムは同じ世紀に同じ行動で統一を獲得して復活した我々の民族の生命を結ぶ、歴史的展開の並行性の表現である 我々は世界観の多くの部分を共有している。意思が民族の生命を決定付ける力であり、歴史を動かす原動力である事を我々は確信している ファシズムには守るべき倫理がある。その倫理は私の個人的倫理でもある。それは包み隠さず明確に発言する事であり、友があれば最後まで諸共に進む事である今日の世界に存在するもっとも純正な民主主義国家はドイツとイタリアであり、明日はヨーロッパ全てがファシスト化されるだろう 孤立感に苛まれていたドイツ国民の心情を理解していたムッソリーニは独伊の友情を説き、ファシスト党とナチ党の連帯を語った。悪天候から降雨があったにも関わらず、巧みに民衆を煽るムッソリーニの演説中にはナチ党員から幾度も熱烈な喝采が上がり、拍手が会場に鳴り響いた。それはイタリアが狐の様に狡猾な国家から脱する事を約束する「友情の誓約」でもあり、ムッソリーニ個人は最後までその誓約に殉じる事となった。 1938年3月13日、オーストリアでの住民投票を根拠にドイツがオーストリア併合(アンシュルス)を実行すると、ムッソリーニはこれを承認する宣言を出した。ムッソリーニの元にはヒトラーから直接電報が届き、電報には「一生忘れられないことだ」と記されていた。同年5月にはヒトラーによる二度目のイタリア訪問が行われ、ナポリでのイタリア王立海軍(Regia Marina)による観艦式を視察した。陸軍国のドイツに比べて大規模な戦艦の艦列や、80隻の潜水艦隊によるデモンストレーションを見て、ヒトラーはイタリア海軍の戦力に期待を寄せた。反面、ヴィルヘルム2世を冷遇するヒトラーと違い、立憲君主制を維持するムッソリーニがサヴォイア家とヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に忠誠を誓っていることに対しては懸念を口にしている。 独伊の接近に危機感を覚えたイギリスからの接触で協商同盟を再建する交渉も行われたが、伊土戦争以前から続くチュニジアの領有権やイタリア系チュニジア人(英語版)問題を巡るフランスとイタリアとの対立もあり、捗々しい結果は得られなかった。一方でムッソリーニは1938年4月16日の復活祭に英伊中立条約(英語版)の締結は了承しており、ソ連とはその前の1933年に伊ソ友好中立不可侵条約を結んでおり、イタリアの仮想敵国はドイツや英米、ソ連よりも未回収のイタリアを領土に含むフランスであったことが窺える。
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