「ローマとベルリンの枢軸」発言とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「ローマとベルリンの枢軸」発言の意味・解説 

「ローマとベルリンの枢軸」発言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)

ベニート・ムッソリーニ」の記事における「「ローマとベルリンの枢軸」発言」の解説

詳細は「ローマベルリン枢軸英語版)」、「枢軸国」、および「アドルフ・ヒトラー」を参照 ドイツヒトラー政権は、ファシズム影響されナチズムヴェルサイユ条約体制打破掲げて再軍備宣言などに着手し国際的に孤立していた。ヒトラームッソリーニへの尊敬公言し早い段階から独伊の国家同盟模索していた。対すムッソリーニドイツという国家には若い頃から好意持っていたものの、ナチズムの持つ人種主義要素嫌悪しパワーポリティクスの点からもヴェルサイユ体制維持支持していた(ストレーザ戦線)。 1934年6月ヴェネツィアイタリア最初外遊先に選んだヒトラーとの会談が行われた。会談ヒトラームッソリーニカエサル例えるなど好意深めたが、得意の北方人種論を口にして不興買ったムッソリーニナチス反ユダヤ主義は「常軌を逸している」と批判しオーストリア併合問題でもドルフース政権支持して譲歩しなかった。会談後、外務次官フルヴィオ・スーヴィッチとの会話ヒトラーを「道化師」と評したのは有名な逸話である。その後相次いで発生した突撃隊粛清ドルフース暗殺事件などヒトラー人間性を疑う出来事続き嫌悪感募るばかりであった。それを裏付けるように次の独伊会談3年間にわたって行われなかった。一方でヒトラー政治的能力についてムッソリーニ当初から高く評価しており、自身への敬意誠実な内容感じていた。第二次エチオピア戦争英仏対立した頃からヒトラードイツとの交流進めスペイン内戦では事実上同盟国として共同戦線張ったムッソリーニ1923年に「歴史枢軸ベルリン通過する」と当時ヴァイマル共和政下のドイツ政府との関係重要性指摘した際に初めて「枢軸(伊:Asse、英:Axis)」という用語を政治的に使用した。それから独伊関係が深まる中で「ローマベルリン枢軸」こそが新しい世界秩序生み出す改め演説し、旧協商国挑戦する伊関係を指して枢軸国」(英:Axis powers)とする政治用語国際的に定着していった。1930年代後半からムッソリーニ新生ドイツ英仏に取って代わることを力説するようになり、旧協商国中心である英仏少子化高齢化進んでいることを衰退証拠として挙げ、独伊による枢軸国形成国民訴えた1937年7月今度ムッソリーニドイツ訪問することが決まると、ヒトラーは「私の師を迎えるのだ。全て完璧なければならない」と側近語り宿泊する建物使用する部屋細かく検討しベルリン中央広場には自らが設計したムッソリーニ記念像建設させた。ドイツ各地ナチ党員の組織立った歓迎を受け、欧州随一工業力と再建されドイツ国防軍陸軍部隊演習視察して深い感銘受けた会談仕上げとして前年ベルリンオリンピック開催されたマイフェルト広場ドイツ語版)(五月広場)で開かれたナチ党政治集会記念演説が行われた。100万人の聴衆前にヒトラーから「歴史作られるではなく歴史作り出す得難い人物」として紹介受けたムッソリーニ近代ドイツとイタリア同時期に統一達成したことを踏まえ現代の独伊友好更にはファシズムとナチズムとの思想的同盟について以下の様にドイツ語演説したファシズムとナチズムは同じ世紀に同じ行動統一獲得して復活した我々の民族生命を結ぶ、歴史的展開並行性表現である 我々は世界観多く部分共有している。意思民族生命決定付ける力であり、歴史を動かす原動力である事を我々は確信している ファシズムには守るべき倫理がある。その倫理は私の個人的倫理でもある。それは包み隠さず明確に発言する事であり、友があれば最後まで諸共に進む事である今日世界存在するもっとも純正民主主義国家ドイツとイタリアであり、明日ヨーロッパ全てファシスト化されるだろう 孤立感に苛まれていたドイツ国民心情理解していたムッソリーニは独伊の友情説きファシスト党ナチ党連帯語った悪天候から降雨があったにも関わらず巧みに民衆煽るムッソリーニ演説中にはナチ党員から幾度も熱烈な喝采上がり拍手会場鳴り響いた。それはイタリア様に狡猾な国家から脱する事を約束する友情誓約」でもあり、ムッソリーニ個人最後までその誓約殉じる事となった。 1938年3月13日オーストリアで住民投票根拠ドイツオーストリア併合アンシュルス)を実行すると、ムッソリーニはこれを承認する宣言出したムッソリーニ元にヒトラーから直接電報届き電報には「一生忘れられないことだ」と記されていた。同年5月にはヒトラーによる二度目イタリア訪問が行われ、ナポリでのイタリア王立海軍Regia Marina)による観艦式視察した陸軍国ドイツ比べて大規模な戦艦の艦列や、80隻の潜水艦隊によるデモンストレーション見てヒトラーイタリア海軍戦力期待寄せた反面ヴィルヘルム2世冷遇するヒトラー違い立憲君主制維持するムッソリーニサヴォイア家ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世忠誠誓っていることに対して懸念を口にしている。 独伊の接近危機感覚えたイギリスからの接触協商同盟再建する交渉行われたが、伊土戦争以前から続くチュニジア領有権イタリア系チュニジア人英語版問題を巡るフランスイタリアとの対立もあり、捗々しい結果得られなかった。一方でムッソリーニ1938年4月16日復活祭に英伊中立条約英語版)の締結了承しており、ソ連とはその前の1933年伊ソ友好中立不可侵条約結んでおり、イタリア仮想敵国ドイツ英米ソ連よりも未回収のイタリア領土に含むフランスであったことが窺える

※この「「ローマとベルリンの枢軸」発言」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
「「ローマとベルリンの枢軸」発言」を含む「ベニート・ムッソリーニ」の記事については、「ベニート・ムッソリーニ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「ローマとベルリンの枢軸」発言」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「ローマとベルリンの枢軸」発言」の関連用語

「ローマとベルリンの枢軸」発言のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「ローマとベルリンの枢軸」発言のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのベニート・ムッソリーニ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS