「ローズ対良好教育委員会事件」
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「バート・コームズ」の記事における「「ローズ対良好教育委員会事件」」の解説
1984年10月3日、良好教育委員会の指導者達が、ケンタッキー州の教育予算体系に異議申し立てを行う際に委員会を弁護してくれるよう依頼してきた。州の教育予算体系は、貧しい教育学区に対して不公平な人種差別を行っているというのが、その主張だった。コームズはこの訴訟に勝つのは難しく、州政府役人による他の顧客に対して反感を生むことになると感じた。コームズは、この訴訟を「側面の鞍を必要とする豚のように」必要とし、それでも委員会が州教育委員会の30ないし40%を説得できるならば、事件を引き受けることに合意した、と後に語っていた。委員会は最終的に教育委員会177のうちの66を訴訟に加わるよう説得した。コームズはプロボノとして働きながら、ケンタッキー州生まれの教育法専門家で1985年11月に西ケンタッキー大学学長に指名されたカーン・アレクサンダーなど法律チームを集めた。 コームズはまず議会から訴訟の必要性を無くすような譲歩を得られないか試みてみた。マーサ・レイン・コリンズ州知事は教育改革政策を提案し、1985年半ばにはそれを検討するための特別会期を招集した。議会は所得税を導入して3億ドルの税収により1学級あたりの生徒数を減らすことを目指したが、委員会はもっと基本的な教育体系の構造改革を求めており、その増分でより裕福な学区と貧乏な学区の立場を同じにさせるには不十分だと見ていた。コームズと委員会は特別会期の結論に不満であり、1985年11月20日、「ローズ対良好教育委員会事件」の訴訟を起こした。州知事、教育監督官、州財務官、州議会両院の指導者および州教育委員会全委員が、この事件の被告として挙げられた。 事件を簡略化するために被告側が求めた略式判決は認められず、1987年8月4日、審判がフランクリン郡巡回裁判所で始まった。この裁判中、新しい州監督官が選出された。その新しい監督官ジョン・ブロックは、被告側に付かず、委員会側に付くことを宣言したので、被告側には大きな打撃になった。1988年5月31日、レイ・コーンズ判事は原告側有利の判断をし、教育財政体系は「違憲であり、人種差別をしている」と判断した。その2日後、被告側がケンタッキー州最高裁判所に上訴すると発表したが、選挙で選ばれたばかりのウォレス・ウィルキンソン州知事が上訴に加わることを拒否し、コーンズ判事の裁定を支持した。 最高裁判所での控訴審討論は1988年12月7日に始まった。被告は委員会が訴訟を起こす資格に欠けていると主張した。コームズはこの主張を撥ね付け、ケンタッキー州が国内で最も学力の落ちる州になっているという統計データを挙げて、如何に不公平な教育資金配分が州の生徒達に悪影響を及ぼしているかを示していると論じた。1989年6月8日、裁判所は3対2の票決で、ケンタッキー州の公共教育体系全体が違憲であると裁定し、州議会には1990年1月に召集される次の会期末までに、代案を作るよう要求した。コームズはこの判決について、「私の顧客がシンブル1杯を求めていたが、結果はバケツ1杯を得た」と語っていた。 裁判所は9つの最小標準を設定した。この裁定に反応して州議会は1990年にケンタッキー州教育改革法を成立させた。それがケンタッキー州の教育体系を急速に変化させ、教育学区間の資金を均等化する仕組みを提供し、国内でも最高に厳格な会計基準を実行させた。この議会の行動について、コームズは「ケンタッキー州は今やこの法の理由で、教育されたものとなる決断をしたのであり、その目的で十字軍となるべく乗り出したところだ。我々が次の10年間で一級の世界的な教育体系を開発したからといって、驚くにはあたらない」と言っていた。
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