イタリアとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 08:51 UTC 版)
「オマル・ムフタール」の記事における「イタリアとの対立」の解説
オスマン帝国ベンガジ近郊のジャンズール村で生まれる。故郷のマドラサで教育を受け、16歳の時に父が死去。その後はサヌーシー教団の拠点があったジャグブーブ(英語版)の大学で8年間過ごした。卒業後は帰郷し、イマームとしてクルアーンを教えていた。 1911年、伊土戦争の勃発によりリビアに戦火が及び、10月2日にルイージ・ファラヴェッリ(イタリア語版)のイタリア海軍艦隊がトリポリに現れ、オスマン軍が降伏を拒否したためイタリア艦隊が砲撃を開始。3日間に渡る砲撃により街は破壊・占領された。サヌーシー教団はオスマン軍に協力してイタリア軍と戦い、ムフタールも戦闘に参加し、以降20年に渡りイタリア軍と戦うきっかけとなった。 戦闘はイタリア軍の優位に展開し、翌1912年10月18日に講和条約が結ばれ、トリポリタニア・フェザーン・キレナイカがイタリア王国に割譲された。サヌーシー教団はその後もイタリア軍とのサヌーシー戦争(英語版)を継続する。1920年にキレナイカの支配権を認められるが、1922年のベニート・ムッソリーニ政権成立により対立が激化し、指導者ムハンマド・イドリースは12月21日にエジプト王国に脱出した。
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