イマームとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/11 10:35 UTC 版)
「サイフ・ビン・スルターン」の記事における「イマームとして」の解説
サイフ・ビン・スルターンは、内陸部に多数のアフラジを建設して農業を育成する一方で、バーティナ地方にナツメヤシを植樹して、アラブ人の内陸部から沿岸部への移住を促した。また学校の建設も行った。サイフはルスタク城を自身の宮殿とし、風の塔としてBurj al Riahを増設した。 サイフ・ビン・スルターンは、以前から続いていた東アフリカ沿岸におけるポルトガルとの抗争を継続した。1696年、彼の軍勢はモンバサを攻撃し、2500人の守備隊と難民が籠るジェズス要塞を包囲した。このジェズス要塞包囲戦は33か月間も続き、飢餓と天然痘で数を減らし続けた守備隊の内、最後の降伏の時に生き残っていたのはわずか13人だった。間もなく、オマーン帝国はペンバ島やキルワ島、ザンジバル島も征服した。今やオマーン帝国は東アフリカ沿岸における覇者となっていた。 オマーン帝国は、勢力拡大の一環として、ザンジバルへ大規模な入植を行った。サイフ・ビン・スルターンは、征服した諸都市国家にアラブ人総督を任命してからオマーンに帰国していた。後にこれらの総督はモンバサ総督ウスマーン・アル=マズルイの影響下に置かれるようになり、彼の子孫のマズルイ家は名目的にしかオマーンの宗主権を認めなくなる。またサイフ・ビン・スルターンは、インド人、ペルシア人、ヨーロッパ人の貿易船に対する海賊行為を奨励した。
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