ムラービト軍の犠牲者と戦後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 06:44 UTC 版)
「サグラハスの戦い」の記事における「ムラービト軍の犠牲者と戦後の状況」の解説
一方でムラービト軍の犠牲も少なくはなかった。ダーウード・イブン=アイーサ(Dawud ibn Aysa)は、カスティーリヤ軍の最初の1時間の攻撃で陣営を打ち破られて戦死した。またバダフォスのタイファ、アル=ムタワッキル・イブン=アル=アフタス(al-Mutawakkil ibn al-Aftas)も死んだ。セビリャのタイファ、アッバード3世アル=ムウタミドは、カスティリヤ軍の先鋒アルバル=ファーニョスによる最初の突撃で怪我を負ったが持ち前の豪胆さでイスラム連合軍を勇気付けた。またコルドバのイマームとして知られていたアブル=アッバース・アフマド・イブン=ルーミーリャ(Abu-l-Abbas Ahmad ibn Rumayla)も戦死者に含まれていた。ユースフは多くの犠牲者に落胆したと語っている。加えて彼の後継者も亡くなったことからモロッコへ帰還せざるを得なかった。そのため、カスティーリヤ側は大敗北にもかかわらず、あまり領土を失わずにすんだのである。
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