ムラービト朝との戦いとは? わかりやすく解説

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ムラービト朝との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 08:41 UTC 版)

アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)」の記事における「ムラービト朝との戦い」の解説

不幸中の幸いだったのは、ユースフ戦後トレド進まずアフリカへ引き返したことだった。それは、ユースフおかげで助かったはずのタイファ諸国が、カスティーリャとよりを戻そう画策していることに気付いたユースフスペイン干渉嫌ったからだった。これ以降アルフォンソ6世タイファ諸国荒らし回り時折彼等要請やって来るムラービト朝に対して敗退続け1097年1108年大敗したが、タイファユースフ潜在的な対立が敵の勢い鈍らせ、決定的な損失避けられたためトレド守り抜いた。この時期にムラービト朝との戦いに勝ち、その北上妨げることができたのは、英雄エル・シッドの軍だけであり、1094年バレンシア王国手に入れてからはバレンシアの他の都市征服しつつムラービト朝の軍に勝利1099年に死ぬまでバレンシア保持し続けたが、アルフォンソ6世は彼亡き後バレンシア防衛は無理と判断して1102年シッド未亡人説得してバレンシア退去させた。 とはいえ敗北失った軍事力補充は必要で、2人の娘ウラカテレサそれぞれフランス貴族レーモンアンリに嫁がせ、彼等イベリア半島北西ガリシアとポルトゥカーレを与えた。しかしムラービト朝に対して劣勢なのは変わらないどころか後継者指名した息子サンチョ1108年のムラービト朝との戦いで敗死したためアルフォンソ6世同年ウラカ後継者変更合わせて未亡人になっていたウラカアラゴン王アルフォンソ1世再婚させることを決定した1109年亡くなった。だが、結婚には貴族反対根強い2人性格合わないウラカ先夫の子アルフォンソ(後のアルフォンソ7世)を擁立する一派現れるなど多く障害重なり内乱発生ムラービト朝がその隙にトレド攻撃カスティーリャ存亡の危機に立たされた。

※この「ムラービト朝との戦い」の解説は、「アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)」の解説の一部です。
「ムラービト朝との戦い」を含む「アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)」の記事については、「アルフォンソ6世 (カスティーリャ王)」の概要を参照ください。

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