ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合とは? わかりやすく解説

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ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合」の解説

1056年北アフリカモーリタニアムラービト朝建国された。やがて北上開始したムラービト朝は、1084年にはモロッコガーナ王国支配下置いていた。1086年セビリアグラナダバダホスタイファ諸国は、急速に勢力拡大するアルフォンソ6世対抗するため、揃ってムラービト朝支援要請したムラービト朝君主ユースフ・イブン・ターシュフィーンはこれに応え同年6月30日、自ら軍を率いて上陸したムラービト軍はタイファ諸国の軍と合流しアルフォンソ6世包囲下にあるサラゴサ向かった同年10月23日、サラカの戦いサグラハスの戦い)でムラービト朝中心とする連合軍カスティーリャ軍に壊滅的打撃与えたアルフォンソ6世威勢失墜しタイファ諸国カスティーリャへの貢納停止したカスティーリャ破ったムラービト軍はモロッコ帰還した。するとカスティーリャ戦力再編し、まもなく南方への攻勢再開した。再びムラービト朝救援要請届けられた。1089年ユースフ2度目イベリア上陸果たし、翌1090年にはトレド包囲した。しかしこの時、タイファ諸国ムラービト軍を積極的に支援しなかった。彼らはベルベル系王朝であるムラービト朝が、アラブ系であるタイファ諸国を脅かすのではないか警戒していた。さらにタイファ諸国密かにカスティーリャとの講和準備していた。この不誠実な対応に激怒したユースフイベリアから撤退した。翌1091年ユースフタイファ諸国征服するため、3度目イベリア上陸果たした上陸したその年にコルドバセビリア占領したのを皮切りに1094年リスボン制圧1102年にはエル・シッド亡き後バレンシア獲得した1107年ユースフ死亡し、アリー・イブン・ユースフが即位したが、ムラービト朝勢いは止まらなかった。この間アルフォンソ6世はなんら有効な手を打てなかった。それどころか、1108年ウクレス戦いで一人息子サンチョ失った1110年ムラービト朝サラゴサ占領し南部イベリア統一した

※この「ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
「ムラービト朝の上陸とタイファ諸国の併合」を含む「レコンキスタ」の記事については、「レコンキスタ」の概要を参照ください。

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