カリフ宣言と譲位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:36 UTC 版)
「フサイン・イブン・アリー (マッカのシャリーフ)」の記事における「カリフ宣言と譲位」の解説
1924年3月3日にオスマン家のアブデュルメジト2世がアタテュルク率いるアンカラ政府によってカリフ位を廃位させられると、その2日後にイスラーム世界における権威を求めてカリフ即位を宣言した。しかし、殆どのイスラム世界に広く受け入れられず、オスマン帝国最後の皇帝メフメト6世が支持を表明したぐらいで、カリフ位を理由として重税を課したためにヒジャーズ内部からも広範な反対を招くことになり、在地勢力からも見捨てられた。 さらに以前からメッカ巡礼による経済効果とイスラム原理主義のひとつであるワッハーブ派のイマームとしての立場から聖地併合を希求していたナジュドのスルタン、イブン・サウード(後のサウジアラビア初代国王)に侵攻の大義名分を与えてしまい、マッカを奪われて孤立無援となる(1924年9月 - 1925年12月)。さらに国民からフサインよりもサウード家が講和に応じる可能性が高い長男アリー・イブン・フサイン(英語版)への譲位を要求されて、初めアカバに逃れるが、ワッハーブ軍がこの地に来ることを嫌ったイギリスによりさらにキプロス島への亡命を余儀なくされた。
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