カリフ位の継承
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:08 UTC 版)
アブドゥルマリクは父親の側近として活動した。そしてダマスクスに拠点を構え、684年後半にマルワーンがイブン・アッ=ズバイルの支配下にあったエジプトを征服するために遠征に出ていた間、父親の代理として統治に当たった。685年にマルワーンがエジプトの征服を終えて帰国するとシンナブラ(英語版)で評議が開かれ、そこでマルワーンはアブドゥルマリクをパレスチナの総督に任命するとともにカリフの後継者として指名し、さらにアブドゥルマリクに続く後継者としてアブドゥルマリクの弟のアブドゥルアズィーズ(英語版)を指名した。マルワーンはこの指名によって、ヤズィード1世の息子のハーリド(英語版)がマルワーンの後継者となり、ハーリドの後にはもう一人のウマイヤ家の人物で以前のマディーナ総督のアムル・ブン・サイード・アル=アシュダク(英語版)が後を継ぐというジャービヤで取り決められていた後継者に関する合意を破棄することになった。それでもなお、マルワーンはヤマン族の有力者たちからアブドゥルマリクへの忠誠の誓い(バイア(英語版))を取り付けることに成功した。 この後継者の変更と指名に関して、歴史家のジェラルド・R・ホーティング(英語版)は、アブドゥルマリクは政治的な経験が相対的に乏しかったにもかかわらず後継者に指名されたと主張しているが、一方でアブドゥルアメール・ディクソンは、アブドゥルマリクが早い時期から「徐々に重要な地位に就いていた」ことが示すように、「政治的な能力と国家運営や地方行政に関する知識を持っていた」ことから選ばれたと主張している。マルワーンは685年4月に死去し、アブドゥルマリクのカリフへの即位はヤマン族の有力者たちの手によって平和裡に行われた。9世紀の歴史家であるハリーファ・ブン・ハイヤート(英語版)の記録によれば、アブドゥルマリクはエルサレムでカリフへの即位を宣言したとされているが、現代の歴史家のアミカム・エラドは、この記録について表面的には「信頼することができる」と認めている。 アブドゥルマリクが即位した当初、最も重要な役職はアブドゥルマリクの一族が保持していた。弟のムハンマドはカイス族の鎮圧を任され、アブドゥルアズィーズは705年に死去するまでエジプトの総督として現地の平和と安定を維持した。治世の初期においてアブドゥルマリクはイブン・バフダルやラウフ・ブン・ズィンバー(英語版)を含むシリアのヤマン族の有力者を重用し、これらの者たちが政権の中枢を担っていた。特にラウフ・ブン・ズィンバーは、最高位の大臣や後のアッバース朝時代のワズィール(宰相)に相当する役割を果たした。さらに、アブドゥルマリクのシュルタ(英語版)(精鋭の治安部隊)を率いるのは常にヤマン族出身者であった。最初にシュルタの長官に就任したのはヤズィード・ブン・アビー・カブシャ・アッ=サクサーキー(英語版)であり、同じくヤマン族出身のカアブ・ブン・ハーミド・アル=アンスィーが後任となった。カリフのハラス(英語版)(個人護衛)は通常マウラー(非アラブ系イスラーム教徒の解放奴隷、複数形ではマワーリー)が率い、マワーリーが配属されていた。
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