カリフ政権下のエジプトとは? わかりやすく解説

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カリフ政権下のエジプト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「カリフ政権下のエジプト」の解説

イスラーム時代初期エジプトムスリムによる西方さらなる拡大のための拠点となった。既に第一次第二次内乱以前から、ムスリムたちはエジプト拠点ビザンツ帝国北アフリカイフリーキーヤ)への遠征行っていたが、内乱終結後には本格化した。また、アレクサンドリアの港はシリアレヴァント)のそれとならんでムスリム艦隊造船所及び拠点となり、ビザンツ帝国領への攻撃支えた第二次内乱経てエジプト総督となったアブドゥルアズィーズ英語版)は彼自身功績出自(カリフ・マルワーン1世息子であり、その次のカリフ・アブド・アルマリクの兄弟)のために各地総督中でも特に強力であり、カリフ意のままならない存在であった。しかし、彼の死後にはカリフ権力エジプト統治する総督権力分割することを試みエジプトには軍指揮権を握る総督(wālī、またはamīr)と税務長官(ṣaḥib al-arāg、またはṣaḥib al-arāgi-hā)が別々に任命された。このような処置正統カリフ時代から各地見られるものではあったが、多く場合それは一時的な処置であり、総督位と税務長官位の並立長期わたって継続したことはエジプトにおける大きな特徴である。 ムスリム支配地の拡大伴って外敵脅威和らぐ一方でエジプト内部ではコプト人蜂起や、アルシャームシリア)・アルイラークイラク)の中央政権政治紛争と結びついた闘争常態化した。コプト人蜂起理由主として徴税対する不満であったエジプトの征服の際、初代総督アムル比較寛大な条件の税(上納金)の支払いと、それが将来渡って増額されないことなどを約束してエジプト民心掴み迅速な支配拡大成功した伝えられている。エジプト住民はほとんど全てキリスト教徒コプト教徒コプト人)であり、彼らはいわゆる契約の民(ahl al-dhimma)としてムスリムの「庇護下」に置かれ人頭税ジズヤ)と引き換えに自らの信仰維持することを認められていた。こうした人々ズィンミー庇護民)と呼ばれる。しかし、カリフ関心が主にエジプト歳入にあったため時代とともに徴税強化増税押し進められていったウマイヤ朝末期には人頭税回避アラブ遊牧民植民増加婚姻などを通じてイスラームへの改宗増加し始めた。しかし、アラブ人統治者人頭税減少による税収減を嫌い、むしろイスラームへの改宗抑制する場合すらあり、改宗者に対して人頭税納付要求することも行ったとはいえ705年行政言語アラビア語改められ718年には徴税官吏がムスリムのみに認められるうになるなど、ムスリム社会的優位は明らかであり、ウマイヤ朝末期にはコプト社会対すムスリム側の統制本格化ていった。そして、相当数アラブ人エジプト移住し定着したが、原住地との部族的紐帯維持していたこれらのアラブ人たちの存在中央政府政争エジプト結び付けたこのような状況背景に、ウマイヤ朝末期からアッバース朝期にかけて、主に徴税に不満を持つ現地エジプト人(コプト人)やアラブ人部族反体制派として頻繁に蜂起したアッバース朝ではカリフハールーン・アッ=ラシード在位786年-809年)が息子であるアミーン在位809年-813年)とマアムーン在位813年-833年)にアッバース朝領土分割相続させようとしたことを端緒として、この両者カリフ位を争う内戦発生したエジプトアラブ人たちも二派に分かれて争い、彼らはその過程軍事的政治的地位上昇させていったマアムーン勝利によって内乱終わった後もエジプト現地アラブ人たちは内戦中に手に入れた政治的地位維持し続けた9世紀初頭総督位を得たアル=サリ・ブン・アル=ハカム英語版)やアブドゥルアズィーズ・ブン・アル=ワズィール・アル=ジャラウィーなどがこのような人物の代表例である。エジプトアラブ人たちは徴税拒否し、さらにアンダルスイベリア半島)から到来したアラブ人アンダルス人)たちがアレクサンドリアを襲うなどして、エジプトの統治機構混乱した。この一連の政治不安は、特に下エジプトにおいてコプト人社会大きな打撃与えた。カリフ・マアムーンはエジプト統制回復すべく長期にわたる努力続け、825/826年にマアムーンによって派遣されたイブン・ターヒル(英語版)が、アレクサンドリアアンダルス人を放逐するとともに数年がかりでエジプト秩序回復成功したコプト人たちはなお徴税に対す抵抗続け830年頃にはこうした抵抗運動の中で最大かつ最後となるバシュムール反乱英語版)が発生したが、カリフ・マアムーン自らが率いた軍による苛烈破壊によって鎮圧された。

※この「カリフ政権下のエジプト」の解説は、「エジプトの歴史」の解説の一部です。
「カリフ政権下のエジプト」を含む「エジプトの歴史」の記事については、「エジプトの歴史」の概要を参照ください。

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