カリフ即位後とは? わかりやすく解説

カリフ即位後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 06:53 UTC 版)

ウスマーン・イブン・アッファーン」の記事における「カリフ即位後」の解説

ウスマーン死に瀕したウマルから後継者候補一人指名され同じく後継者候補指名されアリー、タルハ、ズバイル、アブドゥッラフマーン・イブン・アウフ、サアド・イブン・アビー・ワッカースらクライシュ族出身のムハージルーン(マッカ時代からのムハンマド信徒マディーナ移住した人間)の長老会議(シューラー)を開いたカリフ候補者ウスマーンアリー絞られアウフ議長務めたウマル没してから3日間、アウフ指導者以外のマディーナ人間にもいずれがカリフ適しているかを諮り、最終的にウスマーンカリフ適格者選んだ644年11月7日ウスマーンマディーナモスクバイアを受け、カリフ即位するウスマーンカリフという職務に強い重圧感じ最初演説を行うために説教台に登った彼の顔色悪く演説たどたどしいものとなった伝えられている。クライシュ族長老たちにはウスマーン支持者多くアリー主な支持者であるアンサールヒジュラより前にマディーナ住んでいたイスラム教徒)には発言権無かったことが、ウスマーンカリフ選出背景にあった考えられている。さらに別の説として、ウマル時代厳格な統治からの脱却望んだ多く人々が、禁欲的な生活を求めアリーではなくウスマーン支持したためだとも言われている。史料中には、他の長老からの「先任二人カリフ慣行に従うか」という質問に、ウスマーンは「従う」と断言しアリーは「努力する」と答えたことが選出決め手になった記したものもある。 645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃各地始まりアゼルバイジャンアルメニアでは部族勢力反乱起こりエジプト・シリア地中海沿岸部はビザンツ帝国東ローマ帝国)の攻撃を受ける。ウスマーンはそれらの土地騒乱鎮圧し中断されていたペルシア遠征再開したニハーヴァンドの戦いの後に進軍中止していた遠征軍は、ウスマーン命令受けて進軍再開した650年ジーロフト到達した遠征軍は、三手わかれてマクラーン、スィースターン(シジスターン)、ホラーサーン征服しペルシア征服完了する。翌651年メルヴ逃亡したペルシアの王ヤズデギルド3世現地総督殺害されサーサーン朝滅亡したシリアからはメソポタミア北部への遠征軍出発し646年アルメニア650年アゼルバイジャン征服する。こうして、ムハンマドの時代から始まったアラブ人征服活動は、650年終息する。ウスマーンカリフとして初め中国使者派遣した人物考えられており、651年に唐の首都である長安イスラーム国家からの使者訪れた治世後半エジプトイラクではウスマーン政策への不満が高まったシリアにはウマル時代総督任命されムアーウィヤ引き続き駐屯させ、エジプトにはウスマーン乳兄弟であるイブン・アビー・サルフが総督として配属された。ウスマーン実施したウマイヤ家出身者登用政策一門による権力独占として受け取られイスラム教徒の上層部と下級兵士両方に不満を与えたバスラクーファ駐屯する兵士俸給削減によって苦しい生活を送り地方公庫からの現金支給要求したが、総督は彼らの要求を容れなかった。ウスマーン治世末期には、反乱ウスマーン暗殺計画されている噂が流れていた。

※この「カリフ即位後」の解説は、「ウスマーン・イブン・アッファーン」の解説の一部です。
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