シーア派におけるイマーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 15:57 UTC 版)
「イマーム」の記事における「シーア派におけるイマーム」の解説
ムスリムたちの共同体をイスラム共同体(ウンマ)と言うが、ウンマの指導者は血統上の理由により預言者ムハンマドの従弟で娘婿であるアリーとその子孫のみが相応しいと考える人々がシーア派である。シーア派は、アリーの子孫のみがウンマの長たるに相応しい理由として、ウンマを政治的・宗教的に指導する者は神(アッラーフ)の言葉であるクルアーンを正確に解釈できる者でなければならず、クルアーンを正確に解釈できる者は地上に使わされた最後の預言者であったムハンマド以降では、ムハンマドの家族であるアリーとその子孫だけであると考えている。このような、アリーとその子孫だけが持つことができるクルアーンを正確に解釈しウンマの正統な長となるべき人物のことを、シーア派ではイマームと呼ぶ。シーア派の諸派のうち最大多数派である十二イマーム派などは、イマームは無謬であり、クルアーンの解釈からイスラム法(シャリーア)の制定に至るまで様々な宗教上の理解事項は無謬であるイマームの教えによらなければならないと考え、預言者と歴代のイマームたちの言行に関わる伝承に従う。 アリーの一家が最初の3人のカリフ(預言者の代理としてのウンマの指導者)、アブー=バクル、ウマル、ウスマーンよりもイマームとして相応しいと考えた原初のシーア派は、そもそもアリーがイマームに相応しいとした理由が預言者の家族であったことにあるために、アリーの死後はアリーの息子たちのうち、ムハンマドの娘であるファーティマを母として生まれたハサンとフサインの2人がイマームとして相応しいと考え、アリーを初代イマームとして、ハサンを第2代イマーム、フサインを第3代イマームに推戴した。フサインの死後はその子孫がイマームとしてシーア派の指導者に立てられてゆくが、やがてどのアリーの子孫がイマームとして相応しいかをめぐってシーア派は分派を繰り返すことになる。まず早い時期に分派したカイサーン派はファーティマの血筋を重要視せずハサン、フサインの異母弟ムハンマド・イブン・ハナフィーヤとその子孫を立て、740年にウマイヤ朝に対して武力蜂起を行ったフサインの孫ザイド・イブン・アリーを穏健な異母兄ムハンマド・バーキルよりもイマームに相応しいと推戴した人々がザイド派を形成、ムハンマド・バーキルとその後継者ジャアファル・サーディクをイマームとするイマーム派から分かれた。さらに765年、ジャアファル・サーディクが死ぬと、ジャアファルに生前後継者指名を取り消されていた長男イスマーイールを推す人々が分派してイスマーイール派となり、その弟ムーサー・カーズィムを承認したイマーム派の主流派がやがて十二イマーム派を形成する。 シーア派の多くの派では、イマームの位は先代の生前の指名に従い子のうちの一人へと伝えられていくため、イマームの家系の断絶によってイマームが不在となる危機にしばしば直面した。そのためにカイサーン派は早くにイマームを失ってイマーム派に吸収されてしまい、信徒の指導者としての能力に優れていれば、アリーの子孫が望ましいとはいえども誰でもイマームになれるとしたザイド派は思想的には限りなくスンナ派に近づきながらも存続した。これに対し、9世紀イスマーイール派は一般の信徒たちには触れることのできない幽冥の世界にお隠れになり、最後の審判のときマフディー(メシア)として再臨するまで死ぬことなくイマームの位を保ちつづけていると考える理論を生み出した。これをガイバ(幽隠)という。イスマーイール派の一部にはファーティマ朝やニザール派として世襲のイマームが再び現れるが、彼らの登場と王朝の建設にはガイバにあったイマームが再臨することによって終末が目前に来ていると信じる宗教的情熱が密接に関わっている。 874年に第11代イマームが死んだのと同時に、その後継者ムハンマドが行方不明となり、地上からイマームを見失った十二イマーム派もガイバの理論を受け入れた。十二イマーム派は、第12代イマームはガイバに入ったのであり、終末のとき再臨するのだと考え、第12代イマームを「待望される者ムハンマド」(ムハンマド・アル=ムンタザル)と呼ぶ。十二イマーム派では、信徒が誤りなく信仰と行為を成し遂げるためには、学識に富み、無謬であるイマームの意思を推し量ってその意思を体現することのできるイスラム法学者たちをイマームの代理として尊敬し、その意見に従わなくてはならないとする。
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