シーア派の伝えによる生誕と幼年時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 13:30 UTC 版)
「ムハンマド・ムンタザル」の記事における「シーア派の伝えによる生誕と幼年時」の解説
ムハンマドは868年、ハサン・アスカリーを父として生まれた、とされる。母はナルジス(あるいはマリカ)と伝えられ、アラビアの地へと旅するために奴隷に扮したビザンツ皇女であった。父ハサン・アスカリーは第11代イマームとされる。伝によればムハンマドの誕生は当時のアッバース朝カリフ・ムウタミドの手になるシーア派迫害を避けて秘された。 このムハンマド・ムンタザルにかかわる伝えを補強するため、十二イマーム派では次のような預言者のハディースを引く。 「私とアリーは、この民草の父である。我らをよく知る者は、なおアッラーを知り、我らを拒む者は、なおアッラー、唯一にしてまことに偉大なるを拒む。そしてアリーの子孫、すなわち我が孫ハサンとフサインは楽園にて若者らの指導者となり、またフサインの子孫は9人に継がれるであろう。彼らに従う者はすなわち私に従う者。背く者は私に背く者。そしてその9人目に至り、彼はカーイムにしてマフディーである」 第11代イマーム・ハサン・アスカリーが没したのは874年1月1日(聖遷暦260年ラビーI月8日)のことである。十二イマーム派ではこの日、ムハンマド・ムンタザルは時代の人々を導くために神によってイマームに補せられたのだ、とする。シーア派文献に現れるムハンマド・ムンタザルの記録では、父の葬儀にかかわる以下の伝えがもっとも有名なものである。葬儀の礼拝が始まろうとし、ムハンマド・ムンタザルの叔父ジャアファル・イブン・アリーが礼拝導師として進みでようとしたところ、ムハンマドが至って命じた。「脇へ退かれよ、叔父上。イマームの葬送礼拝を導けるのはただイマームのみ」と。ジャアファルは退き、5歳の幼児が父の葬送礼拝を導いた。この直後にムハンマドは消え失せ、「ガイバ」すなわち「隠れ」に入ったのだ、とされるのである。
※この「シーア派の伝えによる生誕と幼年時」の解説は、「ムハンマド・ムンタザル」の解説の一部です。
「シーア派の伝えによる生誕と幼年時」を含む「ムハンマド・ムンタザル」の記事については、「ムハンマド・ムンタザル」の概要を参照ください。
- シーア派の伝えによる生誕と幼年時のページへのリンク