シーア派への圧迫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 18:39 UTC 版)
マンスールは弟のサッファーフと同様にシーア派の過激な一団が統治の障害になると考えて彼らの弾圧に乗り出し、758年に起きたシーア派の反乱を鎮圧する。マンスールはアリーの長子ハサンの曾孫ムハンマドとイブラーヒーム兄弟の逮捕を命じたが、すでに二人は逃走していた。残りのアリー家の人間はクーファのフバイラ城に投獄され、ムハンマドの義父で第3代正統カリフ・ウスマーンの子孫にあたるムハンマド・アル=ウスマーニーは処刑された。逃走した二人を見つけ出すために潜伏先と思われる集落は徹底的な探索を受け、宿を提供した疑いのある人物は全て逮捕された。 762年末、メディナで法学者マリク・イブン・アナス、メディナの名族の多くの支持を受けたムハンマドがカリフを称して反乱を起こし、マンスールが派遣した総督、役人は投獄される。報告は反乱の発生から9日後にマンスールの元に届けられ、マンスールの従兄弟イーサー・ビン・ムーサーが率いるホラーサーン軍がメディナに派遣された。マンスールはムハンマドに助命、居住地の自由、親族の保護と引き換えの降伏を提案したが、ムハンマドは正統のカリフは自分であると答え、ヤズィード、アブー・ムスリムらの末路を挙げて降伏勧告を一蹴した。 さらに762年11月22日にバスラでムハンマドの兄弟イブラーヒームが挙兵する。当時クーファにいたマンスールの元にはわずかな兵力しか残されておらず、最大の危機に直面したマンスールは自分の周りに女性を近づけない態度で戦争に臨んだ。イブラーヒームはアッバース朝の軍に数度勝利を収め、マンスールはクーファからの退却さえ覚悟したと言われている。一方メディナに向かったホラーサーン軍は町の周りに張り巡らされた塹壕を突破して町を攻撃し、12月6日にムハンマドは敗死した。ムハンマドの死を知ったイブラーヒームはカリフへの即位を宣言しクーファに進軍したが、763年2月にクーファ南のバハムラの戦いでイブラーヒームは戦死し、マンスールが勝利を収めた。イブラーヒームの首がマンスールの元に届けられたとき、挺身たちがイブラーヒームの首に罵声を浴びせかける中でマンスールは彼の死を悼み、首に唾を吐きかけて罵倒した部下を厳罰に処したといわれる。 戦後、メディナ、バスラのアリー家の支持者、フバイラ城内のアリー家の人間は処刑、迫害された。また、ムハンマドの首は見せしめのために領内の各地で掲げられ、ムハンマドの最期を見せつけられたエジプトのシーア派は反乱の計画を取りやめたと言われる。シーア派の抵抗を抑えた後は国内の反乱は沈静化し、マンスールは国政の確立に着手する。
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