統一ソマリ会議とは? わかりやすく解説

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統一ソマリ会議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/06 07:35 UTC 版)

統一ソマリ会議
ソマリア内戦に参加
活動期間 分裂前/1987年2月1日 - 1991年11月
アイディード派/1991年11月 - 1992年6月→SNAに改称
アリ派/1991年11月 - 2001年→暫定国民政府に統合
氏族 / 部族 ハウィエ (ハバル・ギディル英語版支族、マルサデ支族、アブガール英語版支族)
指導者 アリ・モハメド・オソブレ英語版
アリ・マフディ・ムハンマド
モハメッド・ファッラ・アイディード
本部 モガディシュなど
活動地域 ソマリア中南部
関連勢力

ソマリ国民運動 (SNM)
ソマリ愛国運動英語版 (SPM)

ソマリ救済民主戦線英語版 (SSDF)
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統一ソマリ会議(United Somali Congress, USC)は、ソマリア内戦初期に有力だった軍閥の一つ。ソマリ族の5大氏族の一つハウィエが1987年に設立した。軍事的才能に優れた将軍モハメッド・ファッラ・アイディードに率いられて、第3代大統領のモハメド・シアド・バーレの追放に成功するが、その後は分裂。分裂後の闘争がソマリアの首都モガディシュで行われたため、ソマリア内戦泥沼化の大きな原因の一つとなった。

背景

1970年代のソマリアでは、第3代大統領のモハメド・シアド・バーレオガデン戦争に失敗し、その後クーデター未遂とされる事件が数件起こった[1][2]。これらに与したとされる人物の多くが逮捕され、一部は海外に逃亡した。

1980年代の終わりになると、バーレ体制はかなりのほころびが目立つようになり、国中で氏族を中心とした軍閥が発生し、レジスタンス運動を始めた。

設立

統一ソマリ会議は1987年、イタリアのローマハウィエ氏族のディアスポラ有志が設立した[3]。1月7~15日に会議が行われ、元ソマリ国民運動幹部のアリ・モハメド・オソブレ英語版、通称ワーディグリー(Wardeegle)が議長に選ばれた[4]。1989年にエチオピアに支部ができた[5]。インドに滞在していたモハメッド・ファッラ・アイディードが参加して軍事部門のトップに立つと、軍事力が大幅に増強された。

1990年半ば[5]にワーディグリーが死去すると[6]、事務部門トップのアリ・マフディ・ムハンマドと、軍事部門トップのモハメッド・ファッラ・アイディードが主導権を巡って対立した[7]。対立の原因には、ハウィエの出身支族が異なること(アリはアブガル支族、アイディードはハバル・ギディル英語版支族)もあった[8]。それでも、ハウィエ氏族はソマリア中心部が本拠地であり、氏族としても大きかったため、統一ソマリ会議は力を発揮した。

発展と分裂

アイディード率いる統一ソマリ会議の部隊は、1990年にソマリアの首都モガディシュに侵攻し、12月にはバーレ大統領を追放し、モガディシュは統一ソマリ会議の支配下となった。

ところが1991年1月、事務部門トップのアリ・マフディ・ムハンマドがアイディードに無断でソマリア大統領就任を宣言する。これにアイディードが反発し、6月にはアリ・マフディ・ムハンマドの部隊とアイディードの部隊の間で戦闘が勃発[5]

1991年7月に行われたジブチ会議において、アリ・マフディ・ムハンマドは2年間の暫定大統領の立場を承認される。これによりジブチ、エジプト、イタリア、サウジアラビアなどからも承認を受けた[8]。しかし、アイディードはこれも認めず、9月に再び戦闘となった[5]。1992年3月に再び大きな戦闘が起こり、アリ・マフディ・ムハンマドは首都モガディシュの北部を、アイディードはモガディシュ南部と周辺地域を占拠した[5]

アイディードは1992年6月に、周辺の軍閥のいくつかを統合してソマリ国民同盟英語版(SNA)と呼ばれる新たな軍閥を作って統一ソマリ会議と決別[5]。ただし、その後もアイディード一派はUSC/SNAとひとくくりに呼ばれることも多い。

一方で、アリ・マフディ・ムハンマドはソマリ救国同盟(Somali Salvation Alliance, SSA)を設立し、こちらはUSC/SSAと呼ばれた[9]

国連は仲介のため、まず1992年2月にアリとアイディードをニューヨークに招き、その結果両者は3月に停戦協定に合意した。これを機として、4月に国際連合ソマリア活動(UNOSOM)が開始された。しかしアイディードがUNOSOMに協力的ではなかったため[10]アメリカ軍主体の多国籍軍統一タスクフォース英語版(UNITAF)が編成され、12月9日から「希望回復作戦」と呼ぶ作戦を開始した。その結果、12月28日にアリ派とアイディード派の休戦が成立。

1993年3月27日のアディスアベバ和平会議にはソマリアで活動する15の組織代表が集まり、モハメド・カニャレ・アフラ(Mohamed Qqnyare Afrah)がUSCの議長として参加している。アイディードもSNAの代表として参加[6]

しかし結局戦闘は収まらず、第二次国際連合ソマリア活動も功を奏しなかった。1993年10月3日のモガディシュの戦闘をきっかけに国連の活動は衰退を見せる。まず、1994年3月にアメリカ軍がソマリアから撤退。さらに、残りの国連軍も1995年1月から3月にかけて撤退した。

1995年6月にアイディードはソマリア大統領就任を宣言。この際に、部下のオスマン・アリ・アト英語版が独立し、アトは自身がSNA議長であると宣言。一方で、アイディードとアリとの抗争も依然として続いた。

アイディードの死亡

1996年7月末、アイディードが射殺される。8月4日、ハバル・ギディル氏族の長老会議が行われ、アイディードの息子のフセイン・モハメド・ファラー・アイディードがアイディード率いる軍閥の後継者となることが決まった[11]。ソマリア大統領就任も宣言するが、やはりソマリア国内の他の派閥および国外共に認められなかった[12]。このころには、アイディード派、アリ派共に統制が緩んでおり、いくつかの小軍閥の集合体に過ぎなくなっていた。

1997年12月22日、フセインは長年の宿敵アリ・マフディ・ムハンマドと和解協定を締結。これはカイロ宣言と呼ばれる[12]。1998年8月には首都モガディシュの共同統治案が出される。アリ派のムサ・スディ・ヤラホウ英語版がこの案に反発して独立。ヤラホウもUSC/SSAのリーダーであると宣言[13]

アリ派の暫定国民政府への統合

2000年7月、ジブチにてソマリアの暫定大統領選挙が行われ、アブディカシム・サラ・ハッサンが選出された。ハッサン暫定大統領の政権は暫定国民政府と称した。アリ・マフディ・ムハンマドもこれに参加し、統一ソマリ会議アリ派も消滅。

参考文献

[脚注の使い方]
  1. ^ ARR: Arab report and record, (Economic Features, ltd.: 1978), p.602.
  2. ^ Ahmed III, Abdul. “Brothers in Arms Part I”. WardheerNews. 2012年2月28日閲覧。
  3. ^ Maria Brons (2001). Society, Security, Sovereignty and the State in Somalia. International Books. p. 208. ISBN 9789057270383 
  4. ^ Research Directorate, Immigration and Refugee Board, Canada (1990年4月1日). “Somalia: Information regarding the United Somali Congress (USC)”. 2015年3月5日閲覧。
  5. ^ a b c d e f Karl R. DeRouen, Uk Heo (2007). Civil Wars of the World: Major Conflicts Since World War II,. ABC-CLIO. p. 679. ISBN 9781851099191 
  6. ^ a b Mohamed Haji Mukhtar (2003). Historical Dictionary of Somalia. Scarecrow Press. p. 251. ISBN 9780810866041 
  7. ^ Library Information and Research Service, The Middle East: Abstracts and index, Volume 2, (Library Information and Research Service: 1999), p.327.
  8. ^ a b Paul Fricska, Szilard. “Harbinger of a New World Order? Humanitarian Intervention in Somalia”. University of British Columbia. 2013年10月6日閲覧。
  9. ^ “EAST AFRICA: IRIN interview: United Somali Congress/Somali Salvation Alliance (USC/SSA)leader Ali Mahdi Mohamed”. IRIN. (1999年5月4日). http://www.irinnews.org/report/6399/east-africa-irin-interview-united-somali-congress-somali-salvation-alliance-usc-ssa-leader-ali 2015年3月2日閲覧。 
  10. ^ 佐伯太郎「ポスト冷戦期のアフリカにおける国内紛争の終結と政治秩序の構築 : 和平プロセス崩壊の国際的側面(渋谷達紀教授退職記念論文集)」『東京都立大学法学会雑誌』第44巻第2号、東京都立大学法学部、2004年、 457-501頁、 ISSN 0386-8745NAID 110004476099
  11. ^ “How a U.S. Marine Became Leader of Somalia”. NY Times. (1996年8月12日). http://www.nytimes.com/1996/08/12/world/how-a-us-marine-became-leader-of-somalia.html 2015年2月6日閲覧。 
  12. ^ a b “Somali factions sign peace agreement”. CNN interactive. (1997年12月22日). https://web.archive.org/web/20080309104323/http://www.cnn.com/WORLD/9712/22/egypt.somalia/index.html?eref=sitesearch 2015年2月7日閲覧。 
  13. ^ “HORN OF AFRICA: IRIN-HOA Weekly Round-up 69 corering the period 22 - 28 December 2001”. IRIN. (2001年12月28日). http://www.irinnews.org/report/29355/horn-of-africa-irin-hoa-weekly-round-up-69-corering-the-period-22-28-december-2001 2015年3月2日閲覧。 

外部リンク


統一ソマリ会議

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アリ・マフディ・ムハンマド」の記事における「統一ソマリ会議」の解説

1970年代ソマリアでは、第3代大統領モハメド・シアド・バーレオガデン戦争失敗しその後クーデター未遂とされる事件が数件起こった。これらに与したとされる人物の多く逮捕され一部海外逃亡した1980年代終わりになると、バーレ体制かなりのほころびが目立つようになり、国中抵抗運動発生した中でもハウィエ氏族主体軍閥・統一ソマリ会議 (USC) は地盤モガディシュ近かったこともあり、大きな影響力持った。 統一ソマリ会議は元々イタリアローマでアリ・モハメド・ワーディグリーが設立した団体で、アリは有力メンバー一人に過ぎなかった。途中から、インド滞在していたモハメッド・ファッラ・アイディード参加し、統一ソマリ会議軍事部門トップ立った1990年に統一ソマリ会議幹部のイスマエル・ジュマレ・オッソブレが死去すると、アリとアイディードは対立した対立の原因には、ハウィエ出身支族異なること(アリはアブガル支族、アイディードはハバル・ギディル(英語版支族)や立場の違い事務畑のアリ軍事畑のアイディード)があった。

※この「統一ソマリ会議」の解説は、「アリ・マフディ・ムハンマド」の解説の一部です。
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