バーレ政権崩壊前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 00:27 UTC 版)
「ウマル・アルテ・ガリブ」の記事における「バーレ政権崩壊前後」の解説
1990年、反政府勢力の統一ソマリ会議が首都モガディシュに侵攻し、政府軍と激しい戦闘となった。バーレ大統領はこれまで自分と同じ氏族出身の者を重用していたが、国民の懐柔策としてイサック氏族のムハンマド・ハワドレ・マダーを首相に抜擢した。ムハンマドでは事態を解決できなかったため、バーレは1991年1月24日、ムハンマドを解任してサウジアラビアに居るウマルを首相に任命した。ところがまもなく統一ソマリ会議がバーレ大統領を首都から追放したため、結局ウマルがソマリアで首相の実務を取ることはなかった。 統一ソマリ会議の議長代理(議長は1990年半ばに死去)だったアリ・マフディ・ムハンマドは自身の大統領就任を宣言し、ウマルをそのまま首相に追認した。しかしウマルはソマリアには戻らず、ケニアのナイロビから大臣3人を招集してそのままリアドで執務を取った。アリ・マフディ大統領とウマル首相は、1991年6月にジブチで開催された会議で一部の国や団体からソマリア暫定政府の首脳として認められたが、混乱(ソマリア内戦)が続いたため、結局は実情を伴わなかった。1992年12月にウマルはリヤドにて「数千人の米軍などがソマリア上陸の準備をしている」と発表している。ウマルは暫定首相を1993年5月まで務めた。
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