ソマリア内戦と統一ソマリ会議の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 03:05 UTC 版)
「モハメド・サイド・ヘルシ・モルガン」の記事における「ソマリア内戦と統一ソマリ会議の台頭」の解説
少し遡って1989年4月、ダロッドの支族であるオガデン(英語版)氏族がソマリア南部の港町キスマヨでバーレ政権に反旗を翻し、ソマリ愛国運動(英語版) (SPM) を結成する。1989年6月には後にSPM幹部になりモルガンと対立することになるアフメド・オマル・ジェスが加わった。 1990年8月、SPMにソマリ国民運動 (SNM)、統一ソマリ会議 (USC) などが加わり、バーレ政権に対抗した。SPMの主体だったオガデン氏族の軍閥は、以後はSPMオガデン派と呼ばれることになる。 1991年1月26日、ハウィエ主体の軍閥統一ソマリ会議 (USC)は首都モガディシュ攻略に成功し、バーレ大統領はモガディシュを脱出した。モルガンもバーレに同行し、ゲド州で軍を再編した。モルガンはバーレの息子マスラー(英語版)と共にケニア経由で国外に出て、武器と石油の買い付けを行った。英国の人権団体マイノリティ・ライツ・グループ・インターナショナル(英語版)によると、その金額は2億7千万ドルにも上る。 バーレは自身が属するマレハン(英語版)(ダロッドの支族)を構成員とした軍閥を作り、ソマリ国民戦線(英語版) (SNF) と名付けた。モルガンは議長に就任した。マレハン軍閥は1991年4月に最初のモガディシュ奪還を試みたが、失敗に終わった。4月の終わり、逆に統一ソマリ会議はソマリア南部の要地キスマヨを占領した。
※この「ソマリア内戦と統一ソマリ会議の台頭」の解説は、「モハメド・サイド・ヘルシ・モルガン」の解説の一部です。
「ソマリア内戦と統一ソマリ会議の台頭」を含む「モハメド・サイド・ヘルシ・モルガン」の記事については、「モハメド・サイド・ヘルシ・モルガン」の概要を参照ください。
- ソマリア内戦と統一ソマリ会議の台頭のページへのリンク