ラインラント問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
ライン川左岸占領は安全保障の観点からフランスの切実な要望であった。フォッシュは1918年11月、ライン左岸に複数の相独立国を建国し、フランス・ベルギー・ルクセンブルクと同盟を組ませてドイツに対抗するという案をイギリスに提示していた。1919年1月10日には10人委員会に「ライン川をドイツ国境とし、ドイツ軍にライン川への接近を禁じた上で連合国軍がライン川各橋梁を永久占領する」という安全保障案を提示した。 3月14日、ロイド・ジョージとウィルソンはライン左岸の永久占領には応じられず、ドイツの侵略があった場合には英米が即座に軍事的保障を行う旨を伝達した。フランス政府はこれを協議したが、あくまで従来の主張を貫くことにした。「フォンテーヌブロー覚書」発表後にフランスは保障案を受け入れてラインラント分離案を撤回したものの、占領期間を賠償支払い完了までとするなど長期占領を主張したため、会議は決裂寸前となった。しかしフランスはウィルソンを抱き込み、ライン左岸を5年から15年占領するという妥協案で合意した。イギリスはなおも反対したが、4月22日に合意が成立した。後にロイド・ジョージはこの占領承認を平和条約の誤りの一つであったと回顧している。一方でフォッシュにとってもこの譲歩は不服であり、クレマンソーとの対立の原因にもなった。
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