供給・経営の動き
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「中部電力 (1930-1937)」の記事における「供給・経営の動き」の解説
岡崎電灯・中部電力(多治見)合併後最初の決算にあたる1930年9月末時点で、中部電力の取付灯数は46万3812灯、電力供給は3万6930.8馬力 (27,539 kW) であった。供給成績は下記#業績推移表にある通り1930年代前半に減少した時期があったが、6年半後の1937年(昭和12年)3月末時点では取付灯数は1.1倍増の52万4166灯、電力供給は2.4倍増の8万7053.1馬力 (64,915 kW) となった。 電力供給の増加は、三河地方における大型繊維工場新設の影響が大きい。1934年までに中部電力が供給契約を締結した新規工場には、日本レイヨン岡崎工場(現・ユニチカ岡崎事業所)、日清レイヨン岡崎工場(後の日清紡績美合工場)、内外綿安城工場、愛知織物幸田工場がある。このうち岡崎市日名町の日本レイヨン岡崎工場は6,000kWを供給(1936年末時点)する大口需要家であり、1935年3月より供給を始めた。その後も1935年内には相模紡績豊橋工場・辻紡績今村工場・浜名紡績新居工場と新規供給開始が相次いでいる。 電力供給の拡大にあたっては周辺事業者との摩擦も生じた。その一つに、東京電灯(1928年に東京電力を合併)との間で生じた東洋紡績浜松工場供給問題がある。これは東京電灯が東洋紡績浜松工場に対し電力料金の値上げを求めた際、それを不服とする工場側が中部電力との間に供給契約を秘密裏に締結したことに端を発する。契約は東京電灯から受電中の1,200kWの契約を打ち切り、中部電力から新規受電分をあわせて2,600kWを受電するというものであった。この動きに対し、東京電灯は親会社東邦電力との間に締結していた営業協定が東邦電力豊橋区域を引き継いだ中部電力にも当然適用されると抗議した。この問題は逓信省の調停により1934年7月、東京電灯が1,200kWの供給を継続し新規分1,400kWの供給は中部電力が分担する、という形で解決し、両社間でも営業協定が成立をみた。 三河地方では矢作水力との間に紛擾を生じた。1933年1月、矢作水力側が岡崎市美合町に新設された日清レイヨン岡崎工場への特定電力供給(供給区域外の供給)を逓信省へ申請したのが発端。同地の供給権を有する中部電力が反発し混乱が生じたが、愛知電気鉄道社長の藍川清成が調停に入り、6月末に協定締結という形で落ち着いた。協定内容は、矢作水力が中部電力の変電所を通じて日清レイヨンへと給電することで名義上は中部電力・実質上は矢作水力による供給という形で妥協する、両社は以後競争や挑発行為を避ける、というもの。これで一旦紛争は落ち着くが、1934年12月、刈谷に工場を持つ豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)が挙母に新工場を建設するにあたり、刈谷工場での供給関係から新工場分についても矢作水力にとの間に供給契約を締結したことで再燃した。紳士協定の解釈をめぐり両社は正面衝突するが、新工場計画が破棄されたため対立は雲散霧消した。その後豊田自動織機は刈谷工場の拡張に踏み切り、これに伴う1,000kW受電増は1936年4月矢作水力に認められた。 経営面では、先に触れた通り水窪川水力電気・天竜電気の合併で資本金の増加があったが、合併を伴わない増資は実施されていない。水窪川水力電気の合併は1934年2月28日付で、合併による増資は100万円(全額払込)。天竜電気の合併は1936年2月18日付で、合併に伴う増資は150万円(90万円払込)である。両社合併後の中部電力の資本金は4635万円となった。一方、払込資本金額は当初2794万4500円で始まり、合併のほか2度にわたる払込金徴収(1936年3月・1937年3月)も実施された結果、1937年3月末時点では3864万9000円となっている。また株式関連の事項として、証券保有のための子会社妻木電気が挙げられる。同社は岐阜県土岐郡妻木町(現・土岐市)を供給区域とする電力会社で、旧岡崎電灯が1929年4月に株式を買収していたもの。中部電力は妻木電気の全株式を持つ一方、妻木電気に多数の自社株を持たせていた。 経営陣を見ると、1933年(昭和8年)11月、岡崎電灯以来の社長杉浦銀蔵が退任し、中西四郎が後継社長に就く。中西は元逓信省電気局長で、前身岡崎電灯の顧問を1929年より務めていた人物である。社内では岡崎電灯の時代から対立があったが、中部電力成立後は東邦電力系の勢力が浸潤して内紛問題が激しくなったという。そこで1934年10月、経営陣を刷新し、愛知電気鉄道社長の藍川清成を取締役会長に迎え、社長には副社長の高石弁治を昇格させた。高石の社長在任は2年間で、1936年12月に杉浦英一と交代している。
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