大名の処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 19:30 UTC 版)
6月23日には内示が出て、光長は次女の嫁入り先である伊達宗利の、青山にあった宇和島藩上屋敷に移った。25日に綱国も江戸の菩提寺である西久保天徳寺に移った。 6月26日、家中取り締まり不行届きであるとして、城地没収の上配流処分となり、光長には近江彦根藩主井伊直興の江戸屋敷にて、伊予松山藩主松平定直へお預けの正式の命が下り、伊予松山城内で蟄居処分となることが決定した。同日、綱国に対しても若狭小浜藩酒井忠直の屋敷にて、備後国福山藩主水野勝種へお預けの命が伝えられた。 7月1日に光長が、翌2日に綱国が配所へ旅立ち、光長は8月1日に松山に到着した。 加えて、先の裁定を行った幕府関係者も流罪などの処罰がされた。酒井忠清は同年5月に死去していたが、大目付の渡辺綱貞は同年6月27日改易となり、さらに八丈島へ島流しとされ、綱貞の3人の息子も他家へ預けられた。また、忠清の長男忠挙、三男忠寛、老中久世広之(延宝7年(1679年)死去)の三男重之は逼塞を命じられた。 累はこの件の処理に奔走した越前松平家の一門にも及び、従兄弟に当たる播磨姫路藩主の松平直矩は15万石から8万石を削られ豊後国日田へ転封、またこれも従兄弟の出雲広瀬藩主松平近栄は3万石から1万5000石へ削られた。
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