大名への道
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秀吉の側室となった妹・竜子の嘆願などにより、高次は許されて秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江国高島郡2,500石を与えられる。翌々年には5,000石へと加増された。さらに同年の九州平定での功により、1万石に加増され、大溝城も与えられて大名となった。天正15年(1587年)、京極家の旧家臣である浅井家の娘・初(父は浅井長政)を正室とする。高次と初は従兄妹同士であった。 天正18年(1590年)、小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石となり、翌年に豊臣秀次が関白に就任すると、従五位下・侍従に任ぜられる。
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大名への道
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永禄10年(1567年)、14歳で織田家入りを果たしてからは羽柴隊(木下隊)の馬廻衆として各地を転戦し、最古参の家臣として秀吉から寵愛を受けた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加している。この戦いで浅井方の山崎新平を討ち取った功績により、天正2年(1574年)に秀吉から近江国野洲郡に1,000石を与えられ、一領主となった。また同じ羽柴家の家臣で黄母衣衆の一員である野々村幸成の娘・本陽院を正室に、甲斐国の浪人の娘であるという慶宗院を側室にそれぞれ迎えて10男6女を儲けている。 やがて秀吉が信長から中国攻略を命じられると、秀久はそれに従軍して戦功を挙げる。天正6年(1578年)に4,000石を加増、天正7年(1579年)には茶臼山城を任せられ、赤松峠を越える播磨道の警護に当たった。また、三木合戦で三木城を包囲していたこの時期には秀吉が三木城から幾度も通った湯の山街道や有馬温泉を統括する湯山奉行にも任じられている。さらに天正9年(1581年)には黒田孝高らと淡路島に渡って岩屋城・由良城を陥落させた(淡路遠征)。 天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去し、秀吉の中国大返しと山崎の戦いが始まると、秀久は淡路で明智光秀方に与した豪族達を討伐する任にあたり、淡路平定に貢献した。秀吉は織田氏重臣の柴田勝家と賤ヶ岳の戦いで対決。秀久も羽柴秀勝と共に十二番隊の将として参戦する予定であったが、秀吉は秀久に四国勢の抑えとして急遽近江から淡路に出向く命を与えた。これにより、柴田側に与した四国の長宗我部元親と対陣することとなる。淡路入りした秀久は菅達長を破り、その後小豆島を占拠し、十河存保を救援(第二次十河城の戦い)するために四国へ渡る。 手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。次いで讃岐国引田に上陸、引田城に入城した。天正11年(1583年)4月21日、長宗我部勢の香川信景らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと徐々に巻き返され、次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する(引田の戦い)。一説では、この戦いの最中に秀久は幟を取られる失態を見せたといわれている。敗戦後は淡路島と小豆島の守りを固める事に専念し、瀬戸内の制海権維持によって四国勢を牽制した。 天正11年(1583年)、秀久は淡路平定の軍功を評価されて淡路国5万石を拝領して大名となり、洲本城に入城した。天正8年(1580年)との説もあるが、信長が淡路に平定軍として秀吉を派遣したのは天正9年(1581年)といわれているため、これは資料の誤りである可能性が高い。淡路受領後は淡路水軍、小西行長、石井与次兵衛、梶原弥助ら複数の水軍を統括し、紀州征伐では湯川一族討伐で功を挙げた。羽柴軍本隊による四国攻めの折には喜岡城を攻略、木津城攻めで城の要を抑え、城内の水源を絶つなど奮戦した。天正13年(1585年)、四国攻めの論功行賞により讃岐1国(うち2万石は十河氏領)を与えられ、聖通寺城(聖通寺山城、宇多津城)、或いは高松城に入城した。
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