諏訪部三刀屋氏とは? わかりやすく解説

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諏訪部三刀屋氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 15:44 UTC 版)

三刀屋氏」の記事における「諏訪部三刀屋氏」の解説

伝承によると三刀屋氏清和源氏満快流伊那氏一族とされる。満快の曾孫である源為公信濃守として信濃下り伊那名字とした子の伊那為扶が信濃源氏の祖となった。為扶の孫幸扶は諏訪部幸扶と名乗りその子孫出雲国飯石郡の三刀屋郷の地頭職得て出雲入り地名の三刀屋を名字としたことが三刀屋氏始まりとされる承久の乱幕府側として活躍した諏訪部助長承久3年1221年)に三刀屋郷の地頭職与えられ下向した。鎌倉時代中期になると北条氏権力増大し多く鎌倉御家人所領のある地方へと下向した時期である。後に戦国大名戦国武将として活躍した一族はほとんどがこの時代地方へと下向している(例 毛利氏吉川氏など)。三刀屋氏もこの例に漏れず出雲国三刀屋郷を本拠とし、来たるべき戦国時代備えたのである建武の新政の後の建武2年1335年)、足利尊氏武家政権樹立目指し鎌倉にて挙兵すると、足利直義から三刀屋氏当主重に軍勢催促されている。出雲国守護塩冶高貞足利尊氏味方、扶重も尊氏方に属し延元2年/建武4年1337年)には北陸方面戦い金ヶ崎城攻略戦美濃国での北畠顕家への押さえ当たったその後塩冶高貞謀反により討伐されると、三刀屋氏勢力伸ばしてきた山名氏傘下入った明徳2年1391年)の山名満幸明徳の乱では山名氏傘下離れ幕府指示に従って山名氏討伐傘下している。 山名氏没落後は新たに守護となった京極高詮従い山名氏残党討伐行っている。その後京極氏家臣となり、守護代尼子氏の強い影響を受けるようになった応仁元年1467年)から始まる応仁の乱では出雲国守護京極持清細川方に組し、忠扶も上洛して山名方の斯波義廉戦っている。翌年には近江国転戦して六角氏とも干戈を交えた。 その頃出雲国では守護代尼子清定各地反乱鎮圧し主家京極氏をしのぐほど権力を持つようになった。そして尼子経久守護代から戦国大名への道を歩き始める。文明16年1484年)には幕府により尼子経久追討命令下り三刀屋氏もこれに加わった一度蟄居余儀なくされた尼子経久謀略をもって再起すると、忠扶は尼子経久帰順したこの頃中国地方覇者大内氏であった永正4年1507年)に前将軍足利義尹奉じ大内義興の上洛軍に、尼子氏ともども三刀屋氏従ったが、泥沼の戦い続ける京の戦乱よりいち早く帰国した尼子経久は義興不在大内領への侵略開始大内氏との全面的な対立始まった。頼扶は、尼子経久に従って石見国安芸国転戦し多く軍功挙げた。この頼扶の嫡男が久扶(久祐)である。 天文9年1540年)、安芸国勢力拡大していた毛利元就征伐するため尼子氏は軍を起こした。この吉田郡山城の戦いでは久扶も尼子方の武将として参加したが、散々敗北喫し出雲へと逃げ帰ったその後三刀屋氏大内氏に降るが、月山富田城の戦い以降再度尼子氏従った尼子晴久に従って大内氏所領受け継いだ毛利氏と度々戦ったが、尼子義久時代になると、久扶は三沢為清とともに毛利氏降った永禄5年1562年)に毛利氏出雲への侵攻開始すると、三刀屋城山陰山陽を結ぶ要地であったため、毛利軍兵站拠点となった。そのため尼子氏攻撃受けたが、宍戸隆家山内隆通援軍得て尼子軍撃退した。翌永禄6年1563年)にも、尼子方は宇山久兼牛尾幸清立原久綱らに三刀屋城攻撃させたが、退けている。そして永禄8年1565年)の尼子氏本城である月山富田城攻撃にも小早川隆景に従って菅谷口の攻略担当した尼子氏滅亡後出雲国では山中幸盛らによる尼子再興軍の活動活発化した。久扶は再興軍に参加することなく吉川元春起請文提出して異心無きことを示した天正元年1573年)には天台座主補任問題にも関わり正親町天皇より毛氈鞍覆弓袋などの使用許可受けている。その後毛利氏勢力拡大従い各地転戦天正6年1578年の上月城の戦いにも参加し尼子氏最期見届けた織田信長死後権力を掌握した羽柴秀吉毛利氏従属すると、久扶も秀吉天下統一事業狩り出され九州各地転戦している。 天正14年1586年)に毛利輝元吉川広家小早川隆景の上洛に従いその際徳川家康面会したことが毛利輝元疑心を生み、三刀屋久扶出雲の地を追放される。だが上洛家康面会資料存在せず事実家中統制強めていた輝元により、要地でもある三刀屋を我が物するべく追放されたと思われる。久扶は天正16年1588年)に三刀屋の地を離れ京都隠棲した。徳川家康が8,000石で仕官勧めたが、久扶はこれを断わり京都四日市死去したとされる。 久扶の嫡男孝扶は毛利氏仕えており、文禄・慶長の役では毛利軍属して朝鮮戦った。しかし、本領である三刀屋の回復には至らず毛利氏退去し細川氏仕え慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは丹後国田辺城籠城加わり活躍したその後細川氏退去して、3,000石で紀州徳川家仕えた。三刀屋孝扶の子扶明は、名字を三刀屋から本姓諏訪部戻し三刀屋氏終焉迎えた

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