武力闘争に発展とは? わかりやすく解説

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武力闘争に発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 15:52 UTC 版)

浦上村宗」の記事における「武力闘争に発展」の解説

このようにあからさまな赤松氏権力機構からの排斥行為怒った宗は、宇喜多能家などの家臣と共に備前へと帰り三石城に籠もって赤松氏への反旗を翻した永正16年1519年)冬、この謀反自身更なる権力強化好機捉えて征伐軍動員したによって、三石城包囲された。しかし、宗も赤松氏敵対関係にあった備前最大国人 松田元陸密かに結ぶなど対策講じていた。結局後詰めに元陸が現れるとの報も功を奏し要害の地に築かれ堅守三石城攻めあぐねていた義撃退成功した。 しかし翌年永正17年1520年)にも、討伐軍(義自身出征ではなく小寺城小寺則職主将)に再攻される。この時の討伐軍は浦上氏本拠への攻撃よりも、浦上派へ転身した美作守護代中村則久など浦上派の諸城への攻撃優先されており、浦上派の弱体化意図したものであった当初美作浦上諸氏圧倒する討伐軍(赤松派)の優勢に思われたが、宗の命を受けた宇喜多能家遊撃戦赤松軍を撹乱また、中村則久が籠もる岩屋城堅牢で、十分な備蓄により200日余の包囲を耐えしのぎ陥落しなかった。やがて決め手が無いまま美作へと兵を送る赤松に対して宗は一転して松田元陸と共に本格的な攻勢転じ美作出征してきた赤松軍の背後襲撃。さらに赤松軍の赤松村景などを懐柔して離反させる事にも成功討伐押し寄せた赤松軍を逆に弱体化させた末に、大将である小寺則職を含む200余り討って討伐軍を壊滅追い込む。この勝利により義威信失墜影響与え主従武力関係すら逆転させた宗はその後播磨への反撃侵攻転じている。やがて軍事的圧迫を嵩(かさ)に、同年11月には義から嫡子才松丸を引き渡させた上に、義自身強制隠居にまで追い込んだ。そして、当時8歳才松改め赤松政村(後の赤松晴政)に赤松氏家督継がせると、自らこの後見人となった。 翌永正18年1521年)の正月足利王丸奉じた義により再挙兵されるも、これを撃破。亀王丸確保目論む宗は、嘘の和睦持ちかけに応じた和解の席で捕縛し播磨室津幽閉した。しかし宗は非情な決断下し元号大永変わった同年9月には、刺客放って幽閉先の暗殺させた。これにより名実共に播磨備前美作支配権奪って戦国大名への道を歩み始めたその頃、亀王丸管領細川高国請われ上洛を果たすと、足利義晴として征夷大将軍となっている。 ただ、影響力拡大させた浦上氏ではあったが、その権力拠り所未だ赤松氏依存する所が大きく、完全に下克上果たしたとは言えなかった。結局の所は赤松当主傀儡立てて、その影で権力行使するという形でしか支配正当性担保出来なかったのである。また但馬山名誠豊からの播磨侵攻受けた際には、赤松氏との共闘見せているが、山名氏脅威去った後は成長して宗の専横反発するようになったと、それを支援する浦上村国など一族有力者争いつつ、政置塩城より追放し美作追いやったこともある。

※この「武力闘争に発展」の解説は、「浦上村宗」の解説の一部です。
「武力闘争に発展」を含む「浦上村宗」の記事については、「浦上村宗」の概要を参照ください。

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