興国寺城跡とは? わかりやすく解説

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興国寺城跡

名称: 興国寺城跡
ふりがな こうこくじじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 静岡県
市区町村 沼津市根古屋青野
管理団体
指定年月日 1995.03.17(平成7.03.17)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成19.07.26
解説文: 興国寺城戦国大名北条早雲伊勢宗瑞)の城であり、彼が自立第一歩しるした城として著名な城である。
 北条早雲は、はじめ伊勢新九郎長氏称し駿河守今川義忠側室であった妹をたよって今川氏に身をよせていたが、義忠急死後の今川家家督争い今川氏親助けて功があり、長享2年(1488)駿河国富士郡下方12郷を与えられて、興国寺城となった
 そののち早雲延徳3年(1491)堀越公方足利茶々丸滅ぼし伊豆領主となって韮山城移り戦国大名への道を歩むことになるが、興国寺城自体以後継続して使用され天文18年(1549)今川義元城地にあった興国寺移転して城地拡大している。永禄11年(1568)以降駿河侵入した後北条氏北条氏邦)の城となり、対武田氏最前線拠点境目の城)として重視された。元亀2年(1571)には後北条氏武田軍攻撃退けているが、この年後北条武田同盟成立(甲相の和)以降武田方の城となり、武田一門穴山梅雪の持城となった
 天正10年(1582)武田勝頼滅亡後徳川家康の城となり、牧野康成入城家康関東移封後は中村一氏の臣河毛重次が、関ヶ原合戦以後天野康景城主となったが、慶長12年(1607)廃城となった
 城地愛鷹山山麓にあるが、南方はかつての湿地帯浮島ヶ原東端人馬踏みいれが困難な要害であった。また城地一部東西根方街道根方愛鷹山麓の意)が通過する一方浮島ヶ原南方海岸砂丘上を旧東海道通過するが、興国寺城からは南に竹田道が伸びて根方街道東海道結んでおり、交通の要衝でもあった。竹田道は造り道とも、浜方道ともよばれるが、武田道の意であろう
 城は本丸二の丸三の丸からなり本丸標高36メートル土塁内側東西60メートル南北50メートル規模があり、最高部天守台伝承地石垣遺構が残るほか、土塁・ほりの遺構良好に残っている。また本丸東方に石火矢台(石火矢大砲の意)があった。三の丸南端にも土塁残っている。これらの遺構浅野文庫蔵興国寺城絵図や、「駿河雑志」所収興国寺城図の画くとおりに良好に残っているが、ほかにも絵図記載はないものの、本丸北側には深い空ぼりを距てて北にくるわが残っている。昭和57年には天守台発掘調査が行われ、東・西2棟建物礎石検出された(それぞれ約7×8メートル)。
 興国寺城戦国大名北条早雲の城として、史上名高く、かつ遺構良好に残っており、戦国時代史を理解する上で不可欠貴重な遺跡である。よって、本丸石火矢台、二の丸、北のくるわ(仮称)、および三の丸一部土塁などの範囲史跡指定し、その保存図ろうとするものである
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