能島城跡
名称: | 能島城跡 |
ふりがな: | のしまじょうあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 愛媛県 |
市区町村: | 今治市宮窪町 |
管理団体: | 今治市(昭33・2・6) |
指定年月日: | 1953.03.31(昭和28.03.31) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 芸豫海峽に属する荒神瀬戸にあって、南北朝時代村上義弘がこれに據ったと伝えられ、以后累代の居城であると共に伊豫水軍の根據地となった。 海峽の咽喉を扼する位置にある能島の頂上を削平して本丸となし、約三間下方の東、西、南の三面を廻って二の丸がある。北東に突出している出丸は矢櫃と称せられ、海峽を隔てて鵜島に対し、更に南方鯛崎島と相対する処に目一つの鼻と称する出丸がある。三の丸は二の丸の西に接して鍵形の平坦地をなし、その北東に小入江があって船舶の集合に適し、附近を鵜瀬という。能島の南稍々西に狹い海峽を隔てて鯛崎島があり、その頂上は削平されていて、出丸として使用されていた。 能島の南部海岸の岩礁上に多数の円柱穴の跡があり、直径約六、七寸のものが多いが、稀に約三尺に逹するものもあり、深さは著しくない。西岸約三十六間、東岸約三十五間の間に約五六尺の間隔で数列をなしていて桟橋等工作物の跡と認められる。この外小規模のものは北部海岸に二箇所、矢櫃の海岸に一箇所、北東岸に二箇所、更に西岸の平地の砂浜にも本柱根基の埋沒しているものが少くない。これらは何れも桟橋の遺構と認められる。 鯛崎島の西岸の岩礁上約五十六間にわたる間に円柱穴の列があって、桟橋の跡と認められ、別に南東の岩礁上にも桟橋の跡がある。北東岸能島に対する岩礁上にも同様の柱穴があって、能島と連絡する構造物があったと認められる。 このように本城跡は特殊な構造がよく遺存しているばかりでなく、史上重要な瀬戸内海水軍の據地として夙に著名であり、学術上価値ある遺跡である。 |
能島
(能島城跡 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 04:30 UTC 版)
能島 | |
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能島北側海上より2016年11月撮影。
右側に見える小規模な砂浜は「船溜まり」と呼ばれる比較的潮流の緩やかな場所。 |
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所在地 | 日本(愛媛県) |
所在海域 | 瀬戸内海 |
座標 | 北緯34度10分58秒 東経133度4分51秒 / 北緯34.18278度 東経133.08083度 |
面積 | 1.5043 km² |
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![]() (愛媛県) |
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能島城跡。正面頂部が本丸跡。能島西側海上より2016年11月撮影。
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城郭構造 | 水軍城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 村上義弘?[1] |
築城年 | 南北朝時代 |
主な城主 | 能島水軍 |
廃城年 | 1588年(天正16年) |
遺構 | 本丸、二の丸、三の丸、出丸 |
指定文化財 | 国指定史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯34度10分58秒 東経133度4分51秒 / 北緯34.18278度 東経133.08083度座標: 北緯34度10分58秒 東経133度4分51秒 / 北緯34.18278度 東経133.08083度 |
地図 |
能島(のしま)は、瀬戸内海のほぼ中央、伯方島と大島との間の宮窪瀬戸、鵜島の南西に位置する無人島。愛媛県今治市(旧:越智郡宮窪町)に属する。属島として鯛崎島が南にある。
能島城
中世、村上水軍の一派、能島水軍(野島氏)が水軍城を設けた。この付近の海域は帆船時代、瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つであった。しかも宮窪瀬戸の東側で能島と鵜島とが流れをさえぎるような位置関係であることから、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなった。このため、平時には通過する船に対して水先案内人として行きかう船を案内し、帆別銭(一種の通行料)を徴収、室町期以降この地に能島城を築き、この海域の制海権を掌握していた。能島城には本丸、二の丸、三の丸、出丸などがあり、中世の水軍城としても規模が大きいものであった。なお、能島には水が得られないことから、近傍の鵜島や木浦から補給していたとされる。
戦国末期、村上氏は豊臣秀吉との戦いに参戦したが敗北を喫し、1588年(天正16年)、秀吉の海賊停止令により、水軍の歴史は終わりを告げた。能島城は廃城となり、江戸時代以降無人島となったため、その城塞遺構はよく保存されている。
1953年(昭和28年)、能島城跡の名称で国の史跡となり、1973年(昭和48年)に愛媛県教育委員会は「能島水軍の里」を設置した。その後もたびたび文化財調査等が行なわれている。
2017年(平成29年)4月6日、能島城が続日本100名城(178番)に選定された。
観光

能島のソメイヨシノは1931年(昭和6年)に宮窪村(当時)の有志により植えられたもので、長らく桜満開の時期の週末には季節船が運航され花見客でに賑わった。 しかしながら、2018年(令和元年)の西日本豪雨と2019年(令和2年)の台風接近時に相次いで土砂災害が発生。樹木の根が斜面崩壊や岩盤崩落の原因の一つと考えられたことから、2022年(令和4年)、遺構や遺物の保護を目的にソメイヨシノを含む樹木の大部分を伐採し、根の除去が行われた[2]。
また、村上水軍博物館の前から宮窪町漁業協同組合が主催する観光船が出され、能島付近の潮流体験が出来る。
村上海賊の娘(和田竜、2014年本屋大賞)の歴史に依る、村上水軍城(本丸、二之丸、三の丸、東南出丸、吊り橋、鯛崎出丸)などの再現が進行中である。
脚註
- ^ 能島城跡
- ^ “村上海賊の島 歴史守るため告げた「別れ」”. 毎日新聞 (2024年1月12日). 2024年1月12日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 潮流体験・能島水軍
- 国土地理院 電子国土地図より能島付近
- 能島城跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 能島城跡のページへのリンク