大名取立てとは? わかりやすく解説

大名取立て

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 10:20 UTC 版)

毛利秀包」の記事における「大名取立て」の解説

秀包は容姿秀でていたとされ、秀吉優遇された。天正13年1585年1月河内1万石、3月紀州雑賀征伐参戦次いで6月四国征伐氷見原の戦いで金子元宅撃退し高尾城攻める際に自ら長宗我部元親家臣花房親兵衛を討ち取り金子元春の守る伊予金子城攻略した戦功により伊予宇和郡大津城で35千石与えられた。天正14年1586年)から始まった九州征伐では養父の隆景に従って豊前小倉城宇留津城・香春嶽城攻略した。特に高橋元種が守る香春嶽城攻める際、秀包は鉄砲隊率いて敵と激戦となって一番乗り戦功挙げて敵将三人討ち取って城門を破る大活躍と伝わる。 また、筑後の国豪族草野鎮永(草野家清)が秀吉九州仕置反発して発心嶽城に立て籠もった。秀包に攻められ下山善導寺逃げ込んだ鎮永は秀吉に謀られ木塚の里で自害したという。 戦後に隆景が筑前筑後領すると、筑後3郡75千石領した天正15年1587年)には久留米城築き居城とした。 肥後国人一揆の際は討伐軍の総大将として出陣し和仁親実兄弟籠城した田中城攻略し立花宗茂と共に戦功挙げたこの際宗茂意気投合し義兄弟契り結んだ。この2人天正16年1588年7月秀吉により羽柴氏名乗ることが許された。この時、宗茂には豊臣姓が下賜されたが、翌年天正17年1589年7月13日、秀包が侍従任官する同時に秀包にも豊臣姓が下賜された。 以降、秀包は「羽柴久留米侍従」と呼ばれるようになった久留米居城とした後は大友宗麟の娘を妻とした縁もあり、受洗洗礼名シマオ(Simao)とした。以後キリシタン大名として活動が目立つようになり、天正19年1591年)には大友家依頼により高良山座主麟圭(りんけい)・了巴(りょうは)父子鴻門の会のような計策で誘殺し城下天主堂建設キリスト教信者は7,000と言われる。もっとも麟圭を滅ぼしたのは宗教対立からではなく純粋な武力抗争の結果である。後に慶長元年1596年)、秀包は麟圭の末子の秀虎丸召し出して高良山座主尊能としている。

※この「大名取立て」の解説は、「毛利秀包」の解説の一部です。
「大名取立て」を含む「毛利秀包」の記事については、「毛利秀包」の概要を参照ください。

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