キリシタン大名としてとは? わかりやすく解説

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キリシタン大名として(キリスト教信者5)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 03:03 UTC 版)

高山右近」の記事における「キリシタン大名として(キリスト教信者5)」の解説

天正10年1582年6月2日本能寺の変信長没すると、明智光秀右近清秀協力期待してたようだが、右近高槻に戻ると羽柴秀吉幕下かけつけた。まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒務め清秀池田恒興と共に奮戦して光秀敗走させ、清洲会議でその功を認められ加増された。また、安土にあったセミナリヨ高槻移転した賤ヶ岳の戦いでは岩崎山を守るものの、柴田勝家の甥・佐久間盛政攻撃にあって清秀討死し、右近攻撃を受ける前に砦を捨てて木之本逃げたとされるが(『賤ヶ岳合戦記』)、これは誤りである。『甫庵太閤記』のように善戦したとされるのが事実に近い。この戦闘での撤退は、人事を尽くして結果であるから主筋秀吉認めるように、やはり評価されよう。また、この件で勝家への内通疑われ天正11年5月16日1583年7月5日)には一時居城高槻城攻められている。その後小牧・長久手の戦い四国征伐などにも参戦している。 右近人徳人として知られ多く大名彼の影響受けてキリシタンとなった。たとえば牧村利貞蒲生氏郷黒田孝高などがそうである。細川忠興前田利家洗礼を受けなかったが、右近影響受けてキリシタンに対して好意的であった。 友照の政策継いだ右近は、領内神社仏閣破壊し神官僧侶迫害加えたため、畿内存在するにもかかわらず高槻周辺の古い神社仏閣建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態陥った領内多く寺社記録には「高山右近軍勢により破壊され一時衰退した」などの記述がある。反面、『フロイス日本史』などのキリスト教徒側の記述では、あくまで右近住民家臣へのキリスト教入信強制はしなかったが(実際に寺社への所領安堵状受洗後に出している)、その影響力が絶大であったために、領内住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺増え、寺を打ち壊して教会建設材料としたと記されている。

※この「キリシタン大名として(キリスト教信者5)」の解説は、「高山右近」の解説の一部です。
「キリシタン大名として(キリスト教信者5)」を含む「高山右近」の記事については、「高山右近」の概要を参照ください。

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