キリシタン墓碑とは? わかりやすく解説

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キリシタン墓碑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:58 UTC 版)

長崎県指定文化財一覧」の記事における「キリシタン墓碑」の解説

南島原市西有家町須川の「ヒリ作右衛門ディオゴ」の墓碑日本最古慶長15年1610年)のローマ字文として国指定史跡世界遺産暫定リスト長崎の教会群とキリスト教関連遺産となっている。島原藩領を中心に大村藩領にかけて慶長年間ピークとしたキリシタン墓碑が多数指定されている。ただし、「大村市原口出土のキリシタン墓碑」は考古資料、「東彼杵町のキリシタン墓碑(2基)」は歴史資料の項に計上される。 名称位置指定日解西彼町のキリシタン墓碑(2基) 西海市西彼町平原郷 1972年8月15日十字INRI銘(Jesus Nazareus Rex Judaeorum=ユダヤの王ナザレのイエス)立碑と慶長18年1613年7月1日銘の自然石伏碑の2基が指定された。特にINRIの銘は県内では珍しい。伏碑の裏大きく抉られ、何かしら事情推量される。 大村市今富のキリシタン墓碑 大村市今富町 1963年5月8日 大村純忠家臣だった一瀬治部大輔栄正の墓碑天正4年1576年11月11日日付刻まれている。禁教以後弾圧備えて伏碑を裏返し、立碑に偽装したものと言われ隠され上面にはカルワリオ十字架刻まれている。 まだれいな銘キリシタン墓碑 島原市山寺町 1928年11月8日 マグダラのマリア由来するクリスチャンネーム「まだれいな」が側面刻まれ墓碑。伏碑が多い切支丹墓碑では少数派の立碑で、正面にはカルワリオ十字刻まれている。被葬者マダレイナについての出自不明である。 小浜町土手之元のキリシタン墓碑(4基) 雲仙市小浜町飛子 1928年11月8日1979年7月27日追加 1928年指定墓碑2基は、花十字半円板碑無紋切妻板碑。したがって被葬者不明である。昭和54年1979年)の圃場整備工事中無紋切妻板碑2基が発掘され追加指定された。発掘地が近接することから、共同墓地跡と推測される小浜町山のキリシタン墓碑 雲仙市小浜町飛子 1928年11月8日十字半円板碑ではあるが、被葬者に関する情報残されていない。花十字紋を刻む面は窪みをつけて平面化してあり、花十字紋の装飾性意識した細工加えてある。 小浜町無田のキリシタン墓碑 雲仙市小浜町木場 1977年5月4日 無紋の台付型墓碑ポルトガル北アフリカ見られる台付墓碑酷似しており、形状からキリシタン墓碑と推定されている。無紋のために被葬者出自不明南串山町のキリシタン墓碑(3基) 雲仙市南串山町甲 1928年11月8日 3基とも文字情報刻まれた伏碑。慶長11年1606年9月3日の里阿んの墓碑慶長17年1612年6月27日墓碑慶長11年墓碑からなる。里阿んの墓碑17年墓碑扁平型、11年無名墓碑切妻型とバリエーションに富む。 加津佐町砂原のキリシタン墓碑(2基) 南島原市加津佐町乙 1928年11月8日 野田浜海岸の松林放置されていた2基の扁平伏碑。1基は無紋被葬者情報得られない。もう1基も花十字紋の輪郭刻まれているが、被葬者建碑年月に関する情報得られない加津佐町須崎のキリシタン墓碑(3基) 南島原市加津佐町己 1928年11月8日 須崎墓地には6基のキリシタン墓碑が確認され特徴著しい3基が指定された。他に例を見ない横長のカルワリオ十字紋伏碑、典型的なカルワリオ十字紋伏碑、慶長18年1613年)の草書建碑由来刻まれた伏碑からなる口之津町白浜のキリシタン墓碑 南島原市口之津町甲 1928年11月8日 白浜海岸松林発掘され複数のキリシタン墓碑群のうち、花十字紋が確認できる1基が昭和3年一斉指定対象となった。伏碑の形状特徴的で、両方の軸部に特有の浅いくぼみが見られる南有馬町吉川のキリシタン墓碑 南島原市南有馬町甲 1975年9月2日 無紋の型墓碑大航海時代南欧流行した墓碑酷似している。備えた副葬品葡萄酒模したものといわれ、墓石膨らみ葡萄酒見立てたものと推測される北有馬町西正寺のキリシタン墓碑(3基) 南島原市北有馬町丙 1928年11月8日 4基出土した墓碑のうち3基が指定された。花十字円筒伏碑と無紋扁平伏碑は台付墓石で、県下ではこの2例しかない。残る1基は典型的な十字紋切妻伏碑である。 北有馬町谷川のキリシタン墓碑 南島原市北有馬町戊 1928年11月8日十字紋の伏碑。20歳死去したクリスチャンネーム「るしや」の墓碑で、慶長15年1610年11月17日記録がある。古くより「ジョウロウ様の墓」と伝承されてきたことから、被葬者有馬氏ゆかりの娘ではないか推測される西有家町里坊のキリシタン墓碑 南島原市西有家町里坊 1928年11月8日 大正5年1917年)に耕地から発掘され墓碑4基のうち、最上段に積み上げたカルワリオ十字紋の扁平伏碑が指定された。農作業障害物として地主積み上げたまま放置され下段3基の詳細な調査実施されていない有家町中須川のキリシタン墓碑(2基) 南島原市有家町中須川 1928年11月8日 セミナリオといわれる耕地水神として祭られていたが、明治35年1902年)に墓碑確認され県内墓碑研究嚆矢となった。花十字箱型墓碑は紋が浮き彫り希少例。カルワリオ十字紋伏碑は典型的な彫り有家町小川のキリシタン墓碑 南島原市有家町小川 1928年11月8日 歴代地主が立碑として祀っているが、様式中須川墓碑同じく箱型墓碑で、中須川墓碑サイズ彫刻技法酷似することから、ほぼ同時に作成され墓碑考えられ発見もほぼ同時である。 有家町尾上のキリシタン墓碑 南島原市有家町尾上 1928年11月8日 石垣の表石として使われていたクリスチャンネーム「類子(ルイス)」の墓碑で、キリシタン史跡公園移設された。慶長12年1607年3月24日記録がある。ルイス出自不明であるが、墓誌名として詳細な部類に入る。 有家町力野のキリシタン墓碑(2基) 南島原市有家町山川 1928年11月8日子墓碑と同じく石垣の表石として再利用されていたもの個人敷地移設した。カルワリオ十字架刻伏碑と花十字紋刻伏碑の2期からなる。花十字墓碑破砕激しく半分ほど欠損している。 布津町キリシタン墓碑群 南島原市布津町乙 1928年11月8日 共同墓地内に散在していた6基の墓碑集約されといわれる。うち5基は無紋無名の伏碑。1基はカルワリオ十字架刻まれているほか、礼拝時に十字架立てるためと思われる穴が穿孔されている。 川棚町のキリシタン墓碑 川棚町下組郷 1954年4月13日 大村藩士富永二介の妻の墓碑元和8年1622年7月15日日付が残る。筒型の立碑で、キリストを表すと思われるCRVSの4字を組み合わせた装飾記号やMACIの銘(クリスチャンネーム「マンシア」など諸説あり)が刻まれている。 波佐見町のキリシタン墓碑群 波佐見町野々川郷 1972年2月4日 自然石板碑の裏簡素な十字紋を刻んだだけの簡素な墓碑群。墓碑銘一切ないことから、明暦2年1656年)の郡崩れまでに隠れキリシタン建てた推測される郡崩れ以後徹底弾圧にも発見され残存しといわれる

※この「キリシタン墓碑」の解説は、「長崎県指定文化財一覧」の解説の一部です。
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