キリシタン墓碑
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「長崎県指定文化財一覧」の記事における「キリシタン墓碑」の解説
南島原市西有家町須川の「ヒリ作右衛門ディオゴ」の墓碑が日本最古慶長15年(1610年)のローマ字文として国指定史跡・世界遺産暫定リスト「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」となっている。島原藩領を中心に、大村藩領にかけて慶長年間をピークとしたキリシタン墓碑が多数指定されている。ただし、「大村市原口郷出土のキリシタン墓碑」は考古資料、「東彼杵町のキリシタン墓碑(2基)」は歴史資料の項に計上される。 名称位置指定日解説西彼町のキリシタン墓碑(2基) 西海市西彼町平原郷 1972年8月15日 花十字紋INRI銘(Jesus Nazareus Rex Judaeorum=ユダヤの王ナザレのイエス)立碑と慶長18年(1613年)7月1日銘の自然石伏碑の2基が指定された。特にINRIの銘は県内では珍しい。伏碑の裏は大きく抉られ、何かしらの事情が推量される。 大村市今富のキリシタン墓碑 大村市今富町 1963年5月8日 大村純忠の家臣だった一瀬治部大輔栄正の墓碑。天正4年(1576年)11月11日の日付も刻まれている。禁教以後、弾圧に備えて伏碑を裏返し、立碑に偽装したものと言われ、隠された上面にはカルワリオ十字架が刻まれている。 まだれいな銘キリシタン墓碑 島原市山寺町 1928年11月8日 マグダラのマリアに由来するクリスチャンネーム「まだれいな」が側面に刻まれた墓碑。伏碑が多い切支丹墓碑では少数派の立碑で、正面にはカルワリオ十字が刻まれている。被葬者マダレイナについての出自は不明である。 小浜町土手之元のキリシタン墓碑(4基) 雲仙市小浜町飛子 1928年11月8日・1979年7月27日追加 1928年指定墓碑2基は、花十字紋半円板碑と無紋切妻板碑。したがって被葬者は不明である。昭和54年(1979年)の圃場整備工事中に無紋切妻板碑2基が発掘されて追加指定された。発掘地が近接することから、共同墓地跡と推測される。 小浜町椎山のキリシタン墓碑 雲仙市小浜町飛子 1928年11月8日 花十字紋半円板碑ではあるが、被葬者に関する情報は残されていない。花十字紋を刻む面は窪みをつけて平面化してあり、花十字紋の装飾性を意識した細工を加えてある。 小浜町茂無田のキリシタン墓碑 雲仙市小浜町木場 1977年5月4日 無紋の台付型墓碑。ポルトガルや北アフリカで見られる台付墓碑に酷似しており、形状からキリシタン墓碑と推定されている。無紋のために被葬者の出自は不明。 南串山町のキリシタン墓碑(3基) 雲仙市南串山町甲 1928年11月8日 3基とも文字情報が刻まれた伏碑。慶長11年(1606年)9月3日の里阿んの墓碑、慶長17年(1612年)6月27日の墓碑、慶長11年の墓碑からなる。里阿んの墓碑と17年の墓碑は扁平型、11年無名の墓碑は切妻型とバリエーションに富む。 加津佐町砂原のキリシタン墓碑(2基) 南島原市加津佐町乙 1928年11月8日 野田浜海岸の松林に放置されていた2基の扁平伏碑。1基は無紋で被葬者情報は得られない。もう1基も花十字紋の輪郭は刻まれているが、被葬者や建碑年月に関する情報は得られない。 加津佐町須崎のキリシタン墓碑(3基) 南島原市加津佐町己 1928年11月8日 須崎墓地には6基のキリシタン墓碑が確認され、特徴が著しい3基が指定された。他に例を見ない横長のカルワリオ十字紋伏碑、典型的なカルワリオ十字紋伏碑、慶長18年(1613年)の草書建碑由来が刻まれた伏碑からなる。 口之津町白浜のキリシタン墓碑 南島原市口之津町甲 1928年11月8日 白浜海岸の松林で発掘された複数のキリシタン墓碑群のうち、花十字紋が確認できる1基が昭和3年一斉指定の対象となった。伏碑の形状が特徴的で、両方の軸部に特有の浅いくぼみが見られる。 南有馬町吉川のキリシタン墓碑 南島原市南有馬町甲 1975年9月2日 無紋の型墓碑。大航海時代に南欧で流行した型墓碑に酷似している。棺に備えた副葬品の葡萄酒樽を模したものといわれ、墓石の膨らみを葡萄酒樽に見立てたものと推測される。 北有馬町西正寺のキリシタン墓碑(3基) 南島原市北有馬町丙 1928年11月8日 4基出土した墓碑のうち3基が指定された。花十字紋円筒伏碑と無紋扁平伏碑は台付墓石で、県下ではこの2例しかない。残る1基は典型的な花十字紋切妻伏碑である。 北有馬町谷川のキリシタン墓碑 南島原市北有馬町戊 1928年11月8日 花十字紋の伏碑。20歳で死去したクリスチャンネーム「るしや」の墓碑で、慶長15年(1610年)11月17日の記録がある。古くより「ジョウロウ様の墓」と伝承されてきたことから、被葬者は有馬氏ゆかりの娘ではないかと推測される。 西有家町里坊のキリシタン墓碑 南島原市西有家町里坊 1928年11月8日 大正5年(1917年)に耕地から発掘された墓碑4基のうち、最上段に積み上げたカルワリオ十字紋の扁平伏碑が指定された。農作業の障害物として地主が積み上げたまま放置され、下段3基の詳細な調査は実施されていない。 有家町中須川のキリシタン墓碑(2基) 南島原市有家町中須川 1928年11月8日 セミナリオ跡といわれる耕地で水神として祭られていたが、明治35年(1902年)に墓碑と確認され、県内墓碑研究の嚆矢となった。花十字紋箱型墓碑は紋が浮き彫りの希少例。カルワリオ十字紋伏碑は典型的な平彫り。 有家町小川のキリシタン墓碑 南島原市有家町小川 1928年11月8日 歴代地主が立碑として祀っているが、様式は中須川墓碑と同じく箱型墓碑で、中須川墓碑とサイズや彫刻技法も酷似することから、ほぼ同時に作成された墓碑と考えられ、発見もほぼ同時である。 有家町尾上のキリシタン墓碑 南島原市有家町尾上 1928年11月8日 石垣の表石として使われていたクリスチャンネーム「類子(ルイス)」の墓碑で、キリシタン史跡公園に移設された。慶長12年(1607年)3月24日の記録がある。ルイスの出自は不明であるが、墓誌名としては詳細な部類に入る。 有家町力野のキリシタン墓碑(2基) 南島原市有家町山川 1928年11月8日 類子墓碑と同じく、石垣の表石として再利用されていたものを個人敷地に移設した。カルワリオ十字架刻伏碑と花十字紋刻伏碑の2期からなる。花十字紋墓碑は破砕が激しく、半分ほど欠損している。 布津町キリシタン墓碑群 南島原市布津町乙 1928年11月8日 共同墓地内に散在していた6基の墓碑が集約されたといわれる。うち5基は無紋無名の伏碑。1基はカルワリオ十字架が刻まれているほか、礼拝時に十字架を立てるためと思われる穴が穿孔されている。 川棚町のキリシタン墓碑 川棚町下組郷 1954年4月13日 大村藩士富永二介の妻の墓碑。元和8年(1622年)7月15日の日付が残る。筒型の立碑で、キリストを表すと思われるCRVSの4字を組み合わせた装飾記号やMACIの銘(クリスチャンネーム「マンシア」など諸説あり)が刻まれている。 波佐見町のキリシタン墓碑群 波佐見町野々川郷 1972年2月4日 自然石の板碑の裏に簡素な十字紋を刻んだだけの簡素な墓碑群。墓碑銘が一切ないことから、明暦2年(1656年)の郡崩れまでに隠れキリシタンが建てたと推測される。郡崩れ以後の徹底弾圧にも発見されず残存したといわれる。
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