キリシタンの処罰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/06 01:57 UTC 版)
検挙されたキリシタンは、多人数だったため大村の牢には209人を残し、長崎へ160人、平戸に92人、島原に69人、佐賀へ78人に分散して投獄された。捕縛された者たちの処分は、取り調べ中に牢死した78人の他は、 斬罪 411人 保釈 99人 永牢 20人 と決められた。大村では万治元年7月27日(西暦1658年8月25日)に、放虎原の処刑場で131人が斬首刑になった。首は、獄門所で約1ヵ月間さらされた後、胴体と首はそれぞれ500メートル離れた場所に葬られた。これは、処刑された者たちが、キリシタンの妖術で、首と胴体がつながって生き返ることを恐れたためと言われる。大村以外では、長崎で123人、佐賀で37人、平戸で64人、島原では56人が処刑された。そのうち長崎で13人、佐賀で3人が「吊し殺し」にされ、それ以外は全員斬首された。 長崎に住むオランダ商館員は、この大規模な殉教に対して、「全能の神がこの国の人々のかたくなな心を和らげ、哀れな人たちを助けたまわんことを」と書き綴っている。 永牢となった者には10歳から13歳の幼い子供たちもいた。11歳で入牢した娘が64年後の享保7年(1722年)に75歳で亡くなったという例もある。
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