キリシタンになりたかった鑑康
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 14:49 UTC 版)
「朽網鑑康」の記事における「キリシタンになりたかった鑑康」の解説
鑑康は宣教師らの教えを聞き、嫡子鎮則と共にキリシタンに入信しようとしたが、一族と菩提寺の僧侶の猛反発にあい、断念した。代わりに家督に関係がうすい次男と三男(四男もいたとされる)を入信させた。さらに自分の領地の布教活動を許可し領民300人が入信した。このことは歴史の教科書の資料集に時折出てくる。さらに朽網家の家老2人もキリシタンとなった。鑑康、鎮則親子はキリシタン信者がもつコセッタという玉をいつも持っていたことが宣教師の記録にある。このことは日本側の資料には書かれていない。 鑑康の墓は、久住町大字有氏字岳麓寺2915にあり、碑銘は「朽網領主 救民三河守藤原鑑康公」とあり、墓の管理者は古庄姓である。
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