キリシタンの捕縛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:38 UTC 版)
万治3年(1660年)5月22日、肥後藩高田でキリシタンの男女70余人が捕えられた。その後も岡藩・臼杵藩・熊本藩・府内藩・天領でキリシタンとみなされた人々が逮捕・拘禁された。中には長崎に送られた者もおり、彼らは転宗を迫られ、拒否した者が死罪に処される場合もあった。 姉崎正治の研究では、万治3年から天和2年(1682年)までに、幕府領の日田、岡・臼杵・肥後・府内藩領、大分郡・海部郡・大野郡・中川藩竹田などで517人が召し捕らえられた。豊後国玖珠郡では220人が捕まり、死罪になった者57人、長崎や日田で牢死した者59人、65人が赦免され、江戸送り3人、永牢36人となった。マリオ・マレガの『豊後切支丹史料』・『続豊後切支丹史料』では、臼杵藩内だけで578人が捕縛されたとあり、実際の人数は不明であるが、1000人を超えていると推測されている。その多くが長崎や日田の牢送りとなり、109名が赦免された他は、処刑・牢死・江戸送りとなった。 キリシタンの摘発は、家族や近隣の者の密告によって行なわれたため、一族・一村内で大勢の逮捕者が出ている。臼杵藩海部郡久土村(現・大分市)では、万治3年から寛文9年(1669年)までに156人が、葛木郡では154人が捕縛され、46人が死罪となった。熊本藩大分郡鵜猟河瀬村(大分市)の喜左衛門は実の母を訴えて懸賞金30枚(銀1貫290匁)を受け取り、臼杵藩海部郡久土村の長熊は1人で12人のキリシタンを訴人したという。葛木村のふりは姉弟4人と母が死罪となり、門田村(大分市)の庄兵衛は8人の兄弟が全員牢死または死罪となった。 臼杵藩では、下人・下女を抱えていた有力農民数名が、訴人などによって捕えられた。村井早苗の研究では、これにより藩内の家父長制的大経営の解体が進行し、小農経営の成立を準備する役割が果たされたとしている。
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