キリシタンへとは? わかりやすく解説

キリシタンへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 23:48 UTC 版)

細川ガラシャ」の記事における「キリシタンへ」の解説

天正12年1584年3月信長死後覇権握った羽柴秀吉取り成しもあって、忠興は珠を細川家大坂屋敷戻し監視したこの年に興秋が生まれている。それまで出家した舅・とともに禅宗信仰していた珠だったが、忠興高山右近から聞いたカトリックの話をすると、その教えに心を魅かれていった。しかし改宗に至る内面的な動機については、はっきりとしたことは分からない天正14年1586年)、忠利(幼名・光千代)が生まれたが、病弱のため、珠は日頃から心配していた。天正15年1587年2月11日3月19日)、夫の忠興九州出陣すると(九州征伐)、彼女は彼岸時期である事を利用し侍女数人囲まれ身を隠しつつ教会行った教会ではそのとき復活祭説教行っているところであり、珠は日本人コスメ修道士いろいろな質問をした。コスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本女性話したことはなかった」と述べている。珠はその場洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、彼女の身なりなどから高い身分である事が察せられたので、洗礼見合わされた。細川邸の人間たち侍女帰りが遅いことから珠が外出したことに気づき教会まで迎えにやってきて、駕籠で珠を連れ帰った教会1人若者にこれを尾行させ、彼女が細川家奥方であることを知った。 再び外出できる見込み全くなかったので、珠は洗礼受けないまま、侍女通じた教会とのやりとりや、教会から送られ書物を読むことによって信仰励んでいた。この期間にマリアをはじめとした侍女たち教会に行かせて洗礼を受けさせている。しかし九州にいる秀吉バテレン追放令出したことを知ると、珠は宣教師たち九州に行く前に大坂滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父計らいで、自邸マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャGratiaラテン語恩寵神の恵みの意。ただしラテン語に関してローマ・バチカン発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名受けたバテレン追放令発布されていたこともあり、九州から帰国した忠興受洗怒り棄教させようとしたが、珠は頑としてきかず、ついに忠興黙認することになった

※この「キリシタンへ」の解説は、「細川ガラシャ」の解説の一部です。
「キリシタンへ」を含む「細川ガラシャ」の記事については、「細川ガラシャ」の概要を参照ください。

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