元和の大殉教
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元和の大殉教(げんなのだいじゅんきょう)とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である[1]。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。
注釈
- ^ 場所は一般の刑場ではなく、時津街道沿いで当時は長崎市外の小高い丘であり、26聖人の殉教の処刑場でもあった。現在の西坂公園。
- ^ 「江戸時代に長崎で火あぶりの刑という形で処刑されたキリスト教徒達がいたが、その時の処刑地(殉教の地)の写真が見たい。現在碑の建っている場所は実際の場所ではない(長崎県西坂の丘)」という問い合わせに対する案内より。長野市立長野図書館 (2310222) (2000年7月7日). “レファレンス事例詳細”. 国立国会図書館. 2018年6月18日閲覧。
出典
- ^ “「元和の大殉教」”. キリシタン博物館. 2022年7月7日閲覧。
- ^ “Bienheureux Martyrs de Nagasaki”. Nominis. 2022年7月7日閲覧。
- ^ “23.元和大殉教”. Laudate 女子パウロ会. 2022年7月7日閲覧。
- ^ 結城了悟 “2.木村という平戸の侍” | 日本キリシタン物語. Laudate 女子パウロ会公式サイト
- ^ a b 桐生敏明「末次平蔵と木村一族」『長崎貿易と背教者たち』. Puboo
- 1 元和の大殉教とは
- 2 元和の大殉教の概要
- 3 事件の概要
- 4 火刑された者
- 5 関連項目
元和の大殉教
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詳細は「元和の大殉教」を参照 元和年間での一連のできごとを機に幕府はキリスト教徒の発見と棄教(強制改宗)を積極的に推進していくようになる。 京都所司代であった板倉勝重はキリシタンには好意的で、そのため京都には半ば黙認される形でキリシタンが多くいた(先述の「デウス町」の住人)。しかし、秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、続けて元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、勝重はこれ以上黙認できずキリシタンを牢屋へ入れた。勝重は秀忠のお目こぼしを得ようとしたが、逆に秀忠はキリシタンの処刑(火炙り)を直々に命じた。そして同年10月6日、市中引き回しの上で京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)。この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。 そのような情勢の元和6年(1620年)、日本への潜入を企てていた宣教師2名が偶然見つかる(平山常陳事件)。この一件によって幕府はキリシタンへの不信感を高め大弾圧へと踏み切る。キリスト教徒の大量捕縛を行うようになり、元和8年(1622年)、かねてより捕らえていた宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑する(元和の大殉教)。処刑された55名には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。これは日本二十六聖人以来の宣教師に対する大量処刑であった。続けて1623年に江戸で55名、1624年に東北で108名、平戸で38名の公開処刑(大殉教)を行っている。 一方でこれらの大弾圧はいち早くヨーロッパへ伝えられ、布教熱を引き起こしたとも言われる。例えばドミニコ会の宣教師は、この後も日本への潜入や潜伏を試みていた。
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