元和・寛永の出来事への言及
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「見聞集」の記事における「元和・寛永の出来事への言及」の解説
巻2「真言浄土宗論之事」にみえる浄土宗法度の日付が慶長19年(1614年)正月となっているが、増上寺所蔵原本の日付は元和元年(1615年)7月 日で、『御当家令条』『御制法』所載の条文写しの日付も原本のとおり(慶長19年正月には、草案もできていなかったはず) 巻4「諸士弓筆の道を学び給へる事」に元和元年(1615年)の大坂落城に言及があり、慶長19年(1614年)と記されている「武家諸法度」(全11条)は元和2年(1616年)の修正条文。 巻7「角田川一見の事」に詠歌を載せている阿野宰相の東下は元和2年(1616年)3月。 巻5「吉原町の橋渡りかねたる事」・巻7「よし原に傾城町立る事」にみえる(元)吉原町の遊廓は、庄司勝富『異本洞房語園』によれば元和4年(1618年)の開設。 巻5「日本橋市をなす事」に「件の日本橋は、(…)その後、此橋、御再興、元和4年戊午の年(1618年)なり」と記してある。 巻8「江戸の境地世にこたえる事」に「見渡せる旧跡には、浅草に観音、湯島に天神、神田に大明神、貝塚に山王権現、桜田山に愛宕、いずれもゝゞゝゝあらたにましませば」とあり『武江披沙』所収の「神田大明神由緒書」によれば神田神社は慶長8年(1603年)まで神田橋御門の外、芝崎村にあり、その後に駿河台へ移され、元和2年(1616年)に湯島へ遷座。元和3年(1617年)に社殿が完成した後、神号を「大明神」とした。また桜田山の愛宕神社は本殿構築が慶長15年(1610年)であり、慶長19年(1614年)時点で「旧跡」に含められていることに違和感がある。 巻10「湯島天神御繁昌の事」に言及のある霊巌寺の開創は寛永元年(1624年) 巻7「南海をうめ江戸町立給ふ事」に「南は品川、西はたやすの原、北は神田の原、東は浅草まで町つつきたり」、巻8「江戸の境地世に聞えたる事」に「清水の門に立て夏かと思へは時しらぬふしの雪をみて」、巻10「江戸ちまたの事」に「江戸より外へ出る口は、品川口、田安口、神田口、浅草口、舟口ともに五口有り」などとある「田安口」や「清水門」は外郭濠が完成した後の呼称とみられ、田安門は寛永元年(1624年)頃から存在、清水門の修築は同年。 巻5「よし原町の橋渡りかねたる事」にある吉原町の思案橋の架橋は、『異本洞房語園』によれば寛永5年(1628年)11月のこと。 巻9「新福寺諸国くわんしんの事」に、過去の出来事として述べられている本郷富士権現の駒込勧請は、『兎園随筆』『東京通志』などによると寛永3年(1626年)から同5年(1628年)頃のこと。 巻3「延寿院養生うたひの事」に「見しは今、延寿院道三は当地の名医、諸人信敬す80余才長命なり、養生故そと人沙汰せり」とある延寿院は翠竹院正盛の養子・曲直瀬道三玄朔で、寛永5年(1628年)に83才で没、もしくは寛永8年(1631年)没。
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