元和・寛永の出来事への言及とは? わかりやすく解説

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元和・寛永の出来事への言及

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 14:53 UTC 版)

見聞集」の記事における「元和・寛永の出来事への言及」の解説

巻2「真言浄土宗論之事」にみえる浄土宗法度日付慶長19年1614年正月となっているが、増上寺所蔵原本日付元和元年1615年7月 日で、『御当家令条』『御制法所載条文写し日付原本のとおり(慶長19年正月には、草案もできていなかったはず) 巻4「諸士弓筆の道を学び給へる事」に元和元年1615年)の大坂落城言及があり、慶長19年1614年)と記されている「武家諸法度」(全11条)は元和2年1616年)の修正条文。 巻7「角田川一見の事」に詠歌載せている阿野宰相東下元和2年1616年3月。 巻5「吉原町橋渡りかねたる事」・巻7「よし原に傾城町立る事」にみえる(元)吉原町遊廓は、庄司勝富『異本洞房語園によれば元和4年1618年)の開設。 巻5「日本橋市をなす事」に「件の日本橋は、(…)その後、此、御再興元和4年戊午の年1618年)なり」と記してある。 巻8「江戸境地世にこたえる事」に「見渡せ旧跡には、浅草観音湯島天神神田大明神貝塚山王権現桜田山に愛宕いずれもゝゞゝゝあらたにましませば」とあり『武江披沙』所収の「神田大明神由緒書によれば神田神社慶長8年1603年)まで神田橋御門の外、芝崎にあり、その後駿河台移され元和2年1616年)に湯島遷座元和3年1617年)に社殿完成した後、神号を「大明神」とした。また桜田山の愛宕神社本殿構築慶長15年1610年)であり、慶長19年1614年時点で「旧跡」に含められていることに違和感がある。 巻10湯島天神繁昌の事」に言及のある霊巌寺開創寛永元年1624年) 巻7「南海をうめ江戸町給ふ事」に「南は品川、西はたやすの原、北は神田の原、東は浅草まで町つつきたり」、巻8「江戸境地世に聞えたる事」に「清水の門に立て夏かと思へは時しらぬふしのをみて」、巻10江戸ちまたの事」に「江戸より外へ出る口は、品川口、田安口、神田口、浅草口、舟口ともに五口有り」などとある「田安口」や「清水門」は外郭濠が完成した後の呼称とみられ、田安門寛永元年1624年)頃から存在清水門修築同年。 巻5「よし原町橋渡りかねたる事」にある吉原町思案橋架橋は、『異本洞房語園によれば寛永5年1628年11月のこと。 巻9「新福寺諸国くわんしんの事」に、過去の出来事として述べられている本郷富士権現駒込勧請は、『兎園随筆』『東京通志』などによると寛永3年1626年)から同5年1628年)頃のこと。 巻3「延寿院養生うたひの事」に「見しは今、延寿院道三は当地名医諸人信敬80余才長命なり、養生故そと人沙汰せり」とある延寿院は翠竹院正盛の養子曲直瀬道三玄朔で、寛永5年1628年)に83才で没、もしくは寛永8年1631年)没。

※この「元和・寛永の出来事への言及」の解説は、「見聞集」の解説の一部です。
「元和・寛永の出来事への言及」を含む「見聞集」の記事については、「見聞集」の概要を参照ください。

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