元和の一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 20:46 UTC 版)
天正18年以後、阿波国の大半の地域では兵農分離の前提となる刀狩や検地が進展したが、祖谷山では慶長12年(1607年)に政所・喜多氏の仲介によって祖谷山における惣高の自主申告が行われたものの、土豪たちの抵抗によってそれ以上の進展がみられなかった。 元和3年(1617年)11月、蜂須賀家政は代官渋谷安太夫を派遣して祖谷山の名主・土豪18名に対して伝来の名刀・宝刀27振りを接収させた。渋谷は政所喜多安左衛門を通じて手形を与え、代金の支払を約束した。だが、実際にはこれは刀狩を意図したもので代金支払の意図はなかった。元和6年(1620年)になって藩側の意図に気付いた名主・土豪たちは名子と呼ばれる隷属民700名を連れて寺院参詣のために徳島城の城下にいた家政に対して、代官・渋谷が不正を行って刀の代金が支払われていない旨の直訴を行った。だが、これが家政を激怒させ、18名の名主・土豪は捕縛され、6名が磔・5名が斬首に処せられ、他の7名は一命は助けられたものの身分を剥奪された。その後、祖谷山では政所・喜多氏の権限が強化され、事実上の間接支配が行われ、喜多氏が任じた名主以外の住民は全て名子に編入され、厳しい支配と搾取を受けることになった。その一方で、徳島藩は名主・土豪の粛清と刀狩の実施によって実質上の兵農分離には成功したものの、その特殊な支配体制によって藩による検地の企ては度々阻止され、祖谷山における特殊な支配と検地に対する大小の抵抗は明治の廃藩置県まで続いた。
※この「元和の一揆」の解説は、「祖谷山一揆」の解説の一部です。
「元和の一揆」を含む「祖谷山一揆」の記事については、「祖谷山一揆」の概要を参照ください。
- 元和の一揆のページへのリンク