おおうら‐てんしゅどう〔おほうらテンシユダウ〕【大浦天主堂】
大浦天主堂
読み方:オオウラテンシュドウ(oouratenshudou)
おおうらてんしゅどう 【大浦天主堂】
大浦天主堂(長崎県)
大浦天主堂
名称: | 大浦天主堂 |
ふりがな: | おおうらてんしゅどう |
名称(棟): | |
名称(ふりがな): | |
番号: | 0139 |
種別1: | 近世以前/その他 |
国宝重文区分: | 国宝 |
指定年月日: | 1953.03.31(昭和28.03.31) |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
代表都道府県: | 長崎県 |
都道府県: | 長崎県長崎市南山手町5-3 |
所有者名: | |
指定基準: | |
管理団体名: | |
管理団体住所: | |
管理団体指定年月日: | |
構造形式: | 五廊式教会堂、桟瓦葺、北端八角尖塔付 |
時代区分: | 江戸末期 |
年代: | 元治元(1864) |
解説文: | 元治元年(1864)に完成した堂を改造して明治8年に造り直したもので,外国人宣教師の指導の下に我が国の大工棟梁がその建設を手がけた。ヴォールト天井や尖頭式アーチ形の窓をもつ本格的な洋風建築で,我が国の工匠が洋風建築を手がけた最初期の例として貴重。 |
大浦天主堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/03 06:35 UTC 版)
大浦天主堂 | |
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大浦天主堂
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情報 | |
用途 | 教会 |
設計者 | ルイ・テオドル・フューレ、ベルナール・プティジャン、小山秀之進 |
構造形式 | ゴシック様式 |
着工 | 1862年 |
竣工 | 1864年 |
開館開所 | 1865年2月19日 |
改築 | 1875-1879年 |
所在地 | 長崎県長崎市南山手町5-3 |
座標 | 北緯32度44分3.0秒 東経129度52分12.5秒 / 北緯32.734167度 東経129.870139度座標: 北緯32度44分3.0秒 東経129度52分12.5秒 / 北緯32.734167度 東経129.870139度 |
文化財 | 国宝 |
指定・登録等日 | 1933年1月23日:旧国宝(現行法の重要文化財に相当)指定 1953年3月31日:国宝(文化財保護法)指定 |
カトリック大浦教会 | |
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大浦天主堂下に隣接する大浦教会堂
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所在地 | 長崎県長崎市南山手町2-18 |
国 | ![]() |
教派 | カトリック教会 |
歴史 | |
創設日 | 1865年2月19日 |
創設者 | ベルナール・プティジャン |
守護聖人 | 聖ヨハネ五島 |
初期守護聖人 | 日本二十六聖人 |
管轄 | |
教区 | カトリック長崎大司教区 |
教会管区 | カトリック長崎教会管区 |
聖職者 | |
大主教 (大司教) |
ペトロ中村倫明 |
主任司祭 | ミカエル大水文隆 |


大浦天主堂(おおうら てんしゅどう)は、長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂である。江戸時代幕末の開国後、1864年(元治元年)に竣工した。日本に現存するキリスト教建築物としては最古である。1859年日本の開国とともに長崎に外国人居留地が作られ、その外国人信徒のために建設された。日本二十六聖人とゆかりの深い教会堂とされ、彼らの殉教地である長崎市西坂の方角をほぼ向いている。
1945年(昭和20年)8月9日の長崎市に対する原子爆弾の投下では[1]、全壊を免れた。 1953年(昭和28年)、国宝に指定された。また、2007年(平成19年)にユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まり、2018年(平成30年)に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を構成する文化財の1つである[2][3]。2016年(平成28年)に日本初の小バシリカに指定された[4]。
キリスト教の信仰の場であり、潜伏キリシタンの存在とその信仰を伝える場となっている[注釈 1]。同時に長崎有数の観光地でもあり、拝観は有料となっている。
観光客の増加に伴い、1975年(昭和50年)に、天主堂に登る石段横の隣接地にカトリック大浦教会が建てられ、毎日のミサは大浦教会で行われている。ただし毎年12月24日のクリスマスと3月17日の信徒発見の日のみ、大浦天主堂の聖堂内でミサが執り行われる[5]。
建築概要
外観はゴシック様式で、中央に八角柱の尖塔を1つ備えている。建築設計はフューレ、プティジャンの2名によるもの。建築施工は天草御領島出身の小山秀之進が大工棟梁として施工[6]。建築様式は3本の塔を持つゴシック風の構造ながら、正面中央の壁面はバロック風で、外壁はなまこ壁という和洋折衷の意匠であった。なお、創建当時にあった側塔はほどなく大風で倒壊したとされている[7][8]。正確な時期や経緯は不明であるが、現存する古写真から明治以前に撤去されたことは確実だと考えられている[9]。
その後1875年から1879年にかけて増築工事が行われている。外壁は創建当初の壁の外側に煉瓦塀を造り、白い漆喰で塗り固めたものになり、外観を完全にゴシック様式で統一するなど、創建当時の外観から大きくその姿を変えた[10][11]。木造だった創建時に対し、1879年(明治12年)5月22日に献堂された新教会堂は九州初の煉瓦造構造となった[12]。
内観はリブ・ヴォールト天井で「こうもり天井」とも呼ばれている。施工者の小山秀之進が日本建築の技術を応用して西洋建築を再現したものとなっており、竹をしならせて局面を作り、土と漆喰で固めた構造となっている[13]。当初は三廊式であったが、改築時に間口を左右へと広げており、現在は五廊式となっている[8]。
1862年まで司教座聖堂であったため内陣には司教座(司教または大司教が着座するための椅子)が設置されており[14]、現在でもミサが執り行われる際には使用されている[15]。
歴史
- 1862年(文久2年)
- 1863年(文久3年)8月 - プティジャン神父(後に司教)が長崎に着任。フューレを補助し、天主堂建設に尽力。
- 1864年(元治元年)12月29日、大浦天主堂が竣工。
- 1865年(元治2年)
- 1868年7月26日(慶応4年6月7日) - フランス人神父ド・ロがペルーズ号で来航し、大浦天主堂に入る。ド・ロ神父は大浦天主堂で「教会暦」、「聖教日課」を石版印刷した(これは日本初の石版印刷である)。
- 1875年(明治8年)敷地内に神父を育成するための「長崎公教神学校」が設立された。
- 1875年(明治8年) - 1879年(明治12年) - 天主堂の大規模な増改築を実施。
- 1891年(明治24年) - カトリック長崎司教区(現・カトリック長崎大司教区)の司教座聖堂
- 1933年(昭和8年)1月23日 - 当時の国宝保存法に基づき国宝(旧国宝:現行法の重要文化財に相当)に指定[17]。
- 1945年(昭和20年)8月9日 - 連合軍は長崎市への原子爆弾投下を敢行[18]。大浦天主堂は爆風によって破損したが、爆心地から比較的離れていたため倒壊・焼失は免れる。
- 1952年(昭和27年) - 修理が完了。
- 1953年(昭和28年)3月31日[19] - 文化財保護法に基づき国宝に指定された(洋風建築としては初の国宝指定)。
- 1962年(昭和37年)
- 1965年(昭和40年)
- 1975年(昭和50年)11月3日 - 新築のカトリック大浦教会が完成。
- 大浦天主堂を訪れる観光客数が増加したため、ミサの最中に観光客が見物に入るなど、天主堂内での典礼の進行に支障をきたすようになってきていた。そこでカトリック信者および観光客双方に配慮し、大浦天主堂に隣接する土地に新たに大浦教会を建設。ミサは大浦教会で行われることとなった。
- 1982年(昭和57年)2月26日 - 第264代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が長崎を訪問、大浦天主堂も訪問する[20]。
- 2007年(平成19年) - 建立当初の設計図(平面図と側面図)がパリ外国宣教会本部古文書局の保管資料から発見される[10][21]。
- 2016年(平成28年)- 教皇庁典礼秘跡省長官ロベール・サラ枢機卿による4月26日付公式文書により、日本初の小バシリカとなる。
- 2018年(平成30年)- バーレーンのマナマで開催された第42回世界遺産委員会で世界遺産リストへの記載が決定。
信徒の発見と大浦天主堂
建立まもない天主堂は「フランス寺」と呼ばれ、美しさと物珍しさから付近の住民たちが多数見物に訪れていた。プティジャン神父には「今でも何処かでカトリック教徒が密かに信仰を伝えているのではないか」という僅かな期待があった[要出典]。
1865年3月17日(元治2年2月12日)、浦上(長崎市)の住民十数名が天主堂を訪れた。そのうちの40 - 50歳くらいの女性がひとり、祈っていたプティジャンに近づき、「私どもは神父様と同じ心であります」(宗旨が同じです)と囁き、自分たちがカトリック教徒であることを告白した (この女性の名は、イザベリナ杉本百合[22]だったと言われている)。彼らは聖母像があること、神父が独身であることから間違いなくカトリックの教会であると確信し、自分たちが迫害に耐えながらカトリックの信仰を代々守り続けてきたいわゆる隠れキリシタンである事実を話し、プティジャン神父を喜ばせた[23]。
その後、プティジャン神父は密かに浦上や五島などに布教を兼ねて訪れ、隠れた信者の発見に努めた。浦上だけでなく長崎周辺の各地で多くのカトリック教徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかった。この「信徒発見」のニュースはやがて当時の教皇ピオ9世のもとにもたらされた。教皇は感激して、これを「東洋の奇蹟」と呼んだという[24][25]。この日はカトリック教会では任意の記念日(祝日)となり、信徒発見150周年を迎えた2015年3月17日、日本の教会に固有の「日本の信徒発見の聖母」の祝日となった[26]。
所在地
〒850-0931 長崎県長崎市南山手町5-3
交通
坂道を上った後、券売所からさらに石段を上ることになる。バリアフリーではない。また、駐車場はない。
拝観料
敷地内に併設された「大浦天主堂キリシタン博物館」入場料込みで大人1000円、中高生400円、小学生300円となる[27]。
周辺
脚注
注釈
出典
- ^ “ATOMIC BOMB DAMAGE AND MEDICAL CARE OF VICTIMS”. www.archives.gov. アメリカ公文書館資料 (1946年). 2025年5月25日閲覧。(動画開始3分3~22秒。戦前の大浦天主堂)
- ^ “長崎、天草の「潜伏キリシタン」が世界文化遺産に決定 22件目”. 産経新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
- ^ “長崎と天草地方の「潜伏キリシタン」世界遺産に”. 読売新聞. (2018年6月30日) 2018年6月30日閲覧。
- ^ 大浦天主堂、国内初のバジリカに カトリック新聞オンライン 2016年6月10日
- ^ “~教会でクリスマスのミサ&礼拝に授かる~”. 「ナガジン」発見!長崎の歩き方. 長崎市. 2025年6月18日閲覧。
- ^ 浦川、1945年(昭和20年)、pp. 48ff。
- ^ “歴史的建造物誕⽣の秘密を探る 大浦天主堂[長崎県]|コベルコ建設機械ニュース(Vol.243)”. コベルコ建機 (2019年1月). 2025年6月18日閲覧。
- ^ a b “わが国の洋風建築の黎明期を語る天主堂”. 長崎と天草地方のキリスト教関連歴史文化遺産群ウェブサイト. 長崎県文化振興·世界遺産課. 2025年6月18日閲覧。
- ^ 脇田安大『大浦天主堂物語』聖母の騎士社、2016年1月15日、84-85頁。ISBN 978-4-88216-366-4。
- ^ a b c パリ外国宣教会所蔵の大浦天主堂設計図面
- ^ 大浦天主堂の創建時設計図を仏で発見:長崎新聞 2007年(平成19年)9月6日
- ^ 太田静六『長崎の天主堂と九州・山口の西洋館』理工図書、1982年(昭和57年)。p. 144。
- ^ “長崎の丘に立つ教会”. 政府広報 (2020年11月). 2025年6月18日閲覧。
- ^ “拝観の順路”. 大浦天主堂公式サイト. 2025年7月3日閲覧。
- ^ “「信徒発見」から160年 長崎市の大浦天主堂で記念のミサ”. NHK長崎放送局 (2025年3月18日). 2025年7月3日閲覧。
- ^ 市制百年(1989年(平成元年)4月1日、長崎市役所)
- ^ 1933年(昭和8年)1月23日文部省告示第14号。
- ^ “NAGASAKI BURST”. www.archives.gov. NARA (1945年). 2025年5月25日閲覧。
- ^ 1953年(昭和28年)6月16日文化財保護委員会告示第65号。国宝の指定は3月31日付け。
- ^ “銀世界の歓迎集会 法王迎えて四万七千”. Hawai Hōchi (Honolulu, HI). pp. 01 (1981-02-026). 2025年5月25日閲覧。
- ^ “大浦天主堂の設計図を発見 幕末の創建時の姿伝える”. Hawai Hōchi (Honolulu, HI). pp. 04 (2007年8月27日). 2025年5月25日閲覧。
- ^ 日本人名大辞典+Plus, 朝日日本歴史人物事典,デジタル版. “杉本ゆり(すぎもと・ゆり)とは? 意味や使い方”. コトバンク. DIGITALIO. 2024年11月24日閲覧。
- ^ 浦川和三郎『浦上切支丹史』全国書房、1945年(昭和20年)。pp. 50ff, 63ff。1973年(昭和48年)に国書刊行会から復刻刊行。
- ^ “Library : Pope Pius IX and Japan. The History of an Oriental Miracle”. www.catholicculture.org. 2024年11月24日閲覧。 “On January 8, 1867, His Holiness Pope Pius IX dispatched a special message to Fr. Bernard Petitjean of the Paris Foreign Mission Society, who at the time was involved in missionary work in the city of Nagasaki. The purpose of His Holiness was to personally bless an event, which he exuberantly described as a “Miracle of the Orient.””
- ^ “Laudate | アレオパゴスの祈り”. www.pauline.or.jp. 2024年11月24日閲覧。
- ^ “3月17日 日本の信徒発見の聖母記念ミサ | カトリック長崎大司教区”. www.nagasaki.catholic.jp (2016年3月19日). 2024年11月24日閲覧。
- ^ 拝観のご案内大浦天主堂ホームページ、2024年9月6日閲覧
関連項目
外部リンク
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