信徒発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 02:31 UTC 版)
「ベルナール・プティジャン」の記事における「信徒発見」の解説
大浦天主堂は当時珍しい洋風建築だったので評判になり、近くに住む日本人は「フランス寺」「南蛮寺」と呼び見物に訪れた。プティジャンは訪れる日本人に教会を開放し、自由に見学することを許していた。本来は居留フランス人のために建てられた天主堂を、プティジャンが興味本位で訪れる日本人に開放し見学を許していたのには理由があった。長崎がキリシタン殉教者の土地であることから、未だ信徒が潜んでいるのではないか、もしかすると訪れて来る日本人の中に信徒がいるのではないかというわずかながらの期待があったからである。 はたして1865年(元治2年)3月17日(旧暦2月20日)の午後、プティジャンが庭の手入れをしていると、やってきた15人ほどの男女が教会の扉の開け方がわからず難儀していた。彼が扉を開いて中に招き入れると、一行は内部を見て回っていた。プティジャンが祭壇の前で祈っていると、一行の一人で杉本ゆりと名乗る中年の女性が彼のもとに近づき、「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ(私たちの信仰はあなたの信仰と同じです)」「サンタ・マリアの御像はどこ?」とささやいた。浦上から来た彼らこそ300年近くの間、死の危険を犯してまでキリスト教の信仰を守っていた隠れキリシタンといわれる人々であった。プティジャンは驚き喜んだ。「そうそうサンタ・マリアでござる。あれあれ、おん子ゼズズさまをだいておいでなさる」。 プティジャンはこの仔細をヨーロッパへ書き送り、大きなニュースとなった。以後、続々と長崎各地で自分たちもキリシタンであるという人々が名乗り出てきた。プティジャンは見学を装って訪れる日本人信者に対し、秘密裏にミサや指導を行っていたが、しかし堂々とキリスト教の信者であることを表明する者が現れたため、江戸幕府やキリスト教禁教政策を引き継いだ明治政府から迫害や弾圧を受けることになる。 詳細は「浦上四番崩れ」を参照 だがプティジャンによるキリスト教徒発見と、明治政府による一連の弾圧行為の情報が欧米諸国を動かし、日本に対しキリスト教弾圧政策に圧力をかける結果に繋がり、江戸時代より禁教とされてきたキリスト教信仰が解禁されるきっかけとなった。
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